小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=105

 妻は胃癌を患っていた。手術後、一、二年の寿命と言われ、そのことを妻に隠していたが、せめて本人が希望していた訪日を叶えてやりたいと思い、かさむ医療費と並行して訪日預金も続けていた。が、妻は病魔に再発されて、逝ったのである。病妻であっても共に生きていることに安らぎをつないでいたが、逝かれてみると全てのものに張り合いをなくしてしまった。妻と約束した訪日なども無意味なものとなっていた。娘の典子が、歳に似合わず父の気持ちを推し量ってしきりに旅行をすすめるので、それもそうだな、とあいまいな気持ちで旅発った。
 空虚な思いで訪ねた故郷だが、来て見ると、やはり、それなりの感慨がある。道の辺の一木一草にも懐かしさがこみあげてくる。
 幼時に別れた同級生たちが呼びかけ合い、同窓会を催してくれた。戦死、病死した者、遠方へ嫁いだ者などあって、それほど多い人数でもなかったが、是非逢いたく思っていた級長であった男や、その悪童振りで、はっきりと記憶に残っている男も駈けつけてきた。また、別れの年のクラス担任であった田村由美先生も出席してくれた。細やかで美しいという記憶にあった彼女は、心臓麻痺でも起こしそうに肥っていて、たえずハンカチで汗を拭いていた。矢野君、よく生きて帰ってくれたと感激して、誰よりも涙を流してくれた。
 矢野の故郷は大和盆地と呼ばれている奈良県T町に隣接するH村であった。旧家として知られるその母屋の二階からは、南方に畝傍、耳成、香久山といった、歴史に所縁の深い三山が望めた。
 子供の頃の記憶にある母屋は、大きな釜を四つ並べた竈と、天井のすすけた炊事場、その横に牛小屋があって蝿がわんさと集まっていた。裏庭には軒に沿って足で踏む木臼があり、大勢いた従兄弟が交代で籾を搗いていた。その向かいは大きな倉庫で、日露戦争で手柄を立てたという大柄な伯父が、
「おい、こら」
 と、私たち子供を呼んで畑からもぎたてのトマトや水瓜を与えたりした。その伯父も今は亡く、息子があの頃の伯父と同じ年頃になって、親父と瓜二つの姿で本家を継いでいた。毎年春にボタンの花を咲かせていた庭は、小石を敷き詰めた庭園に変わっていた。それを自慢の従兄弟は分厚い造園の本などを見せて、これを模したんだが俺の独創も加えてあるんだと自慢した。矢野も、いい庭だと思った。本家で二、三日遊んだ矢野は、婿養子となり田島と名乗っているもう一人の従兄弟を訪ねた。

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