小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=97

 そのうちに、胃がおかしい、肝臓に異常がある、などと言い出す。母はこらえ性のない性格で、快復すると無性に歓び、以前の食養生なども忘れて固形物を欲した。私たちは そのことに余りやかましく言わないことにしていたので、消化不良の兆候か、神経質な母の取り越し苦労だと慰めたが、ある日、とうとう医師を訪れた。医師は一昨年のカルテを取り出し、症状を訊き、それは盲腸炎ですね。
しかし切除するほどのことないですよ、と事もなげに答えたが、私には苦し紛れに吐く虚言としか取れなかった。
「奥さん、申し訳ありません。ちょっと娘さんに、お話がありますが……」
 医師は診察室から母に席をはずしてもらい、用箋に薬名を連ねながら、これは制癌剤だから処方箋が入っていたら捨て、盲腸の薬だということにする。処方は静脈注射で、強壮剤と一週間交代に投与する、など教えてくれた。
「……やはり再発ですか?」
「そうかもしれません。手術後二、三ヵ月で再発する人もいるし……」
 医師の言葉は、氷のようだった。去年、手術の直後に、十年位は何ともない人もいると言ったが、あれは単なる慰めだったのか、私にはまた涙が溢れてきた。
「この薬で様子を見ましょう。お母さんには、衰弱が激しいから不摂生が多いんじゃないかと訊かれたと言いなさい」
 母は、胸の動悸がすると言い、戸外で胸を押さえていた。医師から、戸外に出されたことを気に病んでいるらしい。私は医師の言葉を伝えた。
「……それだけ?」
「ううん、それから無茶食いをしてはいけない、とも言ったわ。手術後だから果実は新鮮なのをミキサーにかけなさい、特に注意しなさいって」
 母は腑に落ちない様子だったが、とにかく貰った処方を続けることを唯一の日課とした。しかし病状は快方に向かわなかった。投薬が強すぎるのか、食欲がないし、時どき黄色い物を吐く。
 足がふらついて仕方がない、こんなに注射してよくならないのは不思議だ、医師の処方に手違いがあるんゃないかと心配する。その度に私は医師に電話したり、直接相談にも行き著名な癌専門医も訪ねた。母に投与しているENDXANは制癌剤で、癌細胞を一時的に抑えはするが完治するものでない。病人が衰弱しているなら無理に続ける必要もないこと、日本のマイトマイシンも完全と言うことはできない、とにかく一度診てみましょう、とその専門医はアドバイスしてくれた。

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