小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=89

 祖国を愛した母は、遠隔の地で日本の敗戦を知った時、貧血を起こして何日も寝込んだという。私はブラジル生まれで、祖母とともに幼時を十年近く日本で暮らしたものの、日本への愛国心はさほど強くない。が、母を想う気持ちは、母の愛国心に劣らぬものだ。私を産み、育て、慈しんでくれた母が僅か四〇年の人生で、癌という病魔にとり憑かれてしまった。運命と諦めるには非業過ぎる。この事実を母に告げてはならないのだ。さりげなく母と対面し、安心して手術にもっていけるよう、説得しなくてはならない。しかし、自分にそれが旨くできるだろうか。
 私は電車を降り、公衆電話に取りすがって仕事中の父を呼び出した。受話器の父に、私は泣けて話ができなかった。父は私の悲嘆を知っていた。私の先廻りをして医師から聞き出していたのである。無関心を装っているが、母に寄せる父の心情は、娘の私以上に微妙であるのだ。
「パパも医師に電話した。他に方法はないらしい。お前が悔んだり泣いたりしたら、ママをよけい苦しめることだから、しっかりするんだ。お前が話すのが嫌だったらパパから話そう」
 私は頷くだけだった。父は一切を知り、とるべき手段を決めているようだ。その上、私をも慰めてくれ、私はかなり力づけられて家に入った。
 母は蒼白い顔をし、ふらつく足に力を入れているんだと言いながら、夕餉の仕度をしていた。私はぐんと全身に力を入れ、
「ママ、私がご飯炊くわ」
 と、いつものように、無造作にかばんと母の胃の写ったX線写真を部屋に投げ出した。
「診療所に寄ってきてくれたの?」
「うん、胃下垂ですってよ。だけど薬では効き目が薄いので思いきって手術をしろって」
「癌だと言わなかった?」
 母は何かを予感している。落ち窪んだ眼を瞠り、私の動作を見つめている。私は動揺してはいけないのだ。
「フィルムには何も出ていないって。あまりぶら下がっているから消化不良となり、薬じゃ一時の気休めだし、いっそ胃を三分の二くらい切り取った方がいいんですって」
「手術――こんなに痩せて。ママはしないわ、手術なんか」
「今までだってそう言って堪えてきたけど、もう薬や養生で治る限界を越えているらしいわ。手術以外ないから、勇気を出すのよ。今の医術で胃の手術なんか皮膚の腫物を切るのと同じだって医師は言ったわ」
「だけど――」

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