小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=57

 入水後、それほど時間が経っていなかったので、母は俺たち素人の人工呼吸によって甦ったんだ。その後、家族は事ある毎に母をかばい、父を敬遠した。父は孤独にさいなまれ、ついに短歌などをひねるようになったんだ」
「隆夫さんが八代さんの息子でないなんて、疑ってもみなかったわ。父、母と呼んでいるし……」
「もちろん、習慣でそう呼んでいるまでだ。もう我慢できない」
「みかんの話はどうなったの」
「それがだ、親父はこんな嫌がらせをするのは、隆夫にきまっている。勘当だと言った。一人罪を着てすぐ出ようとしたが、母親や従兄弟から、今家を出ると角がたつので、しばらく様子を見てからにしてくれ、と言われた。一ヵ月ぐらいは居るつもりだ。律子さんにも理解してもらおうと思って」
「嫌よ。隆夫さんが私から遠くへ去るなんて考えられないわ」
 隆夫に心境を打ち明けられ、すっかり同情した律子は、自分の方から隆夫に抱擁した。長い接吻になった。以前、強引に押しつけられた口づけとは異なった悦びが律子の全身をつつんだ。隆夫の体重が律子の身に圧し掛かり、二人はコーヒーの樹間に倒れ込んでいった。
 転んだ二人は互いを確かめ合うように永いこと動かなかった。律子の背中を愛撫していた隆夫の手が一瞬止まり、彼女のスカートの裾をまさぐった。次の行動を予感した律子は、寄せていた頬を離し、やにわに立ちあがろうとした。が、隆夫が強く抱きしめているので動けない。律子がもがくと、よけいに力が加わった。無垢で勝気な律子は、相手が好きな男であっても、こういう衝動的な行為は受け入れられず、抵抗した。
「ちょっと落ち着いてくれ。君は俺を好きでなかったのか」
 隆夫は手の力をゆるめて言った。
「好きだわ。愛してるわ。だけど……」
「俺は君の愛情を確かめたいんだ。こんなしがらみの世から、君と一緒に逃げ出したいんだ」
「今は、無理なの……私には手離せない家庭があるのよ。世間のしきたりもあるのよ」
 少し落ち着いた律子は、もちまえの激しい気性を見せた。移住してこの方、自分が率先して家計を切り盛ってきた。病弱な両親に代って、幼い弟たちの世話をやいてきた。そういうことがいつの間にか身につき、己を強くしていた。隆夫の強引な要望に屈しかねるものがあった。

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