小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=36

「姉ちゃん、こんな夜だったな。日本にいた時、お母ちゃんとお父さんが喧嘩して、里に帰ったお母ちゃんを迎えに行ったのは」
「そんなこと覚えてんの。あの夜も淋しかったね。今は病気して、喧嘩はしなくなったけど……」
 浩二の話に相槌を打ちながらも、胸のうちは、持ってきた品物が果たして買ってもらえるのかどうか、気になる律子だった。
 
夜逃げ
 
 マラリアの特効薬だと言われるパルダンを投与して、田倉は小康を得ていたが、まだ働ける状態ではなかった。田倉に代ってはぎが仕事に出たが、病後の身では何ほどの仕事もできなかった。一日にコーヒー樹十本ぐらいの除草だった。これは十歳の子供にも等しいが、少しでも律子の助けになればと、毎日通い続けた。が、そのくらいの労力では受け持ちの二千本を一ヵ月で除草することはできず、大半はカマラーダ(日雇い人夫)の手に委ねねばならなかった。
 それらの賃金は毎月末に差し引かれるので、自分たちの手取りは幾許もない。それで生活を支えなくてはならず、栄養も充分とは言えない。こんな状態では一家全滅の憂き目を見るのは明らかだ。田倉の療養費は裏の植民地の岡野が工面してくれているが、もう何回も無理を願い、これにも限度を感じていた。
「この前、岡野さんが、大きな声で言えないが、と声を落とし、働いても働いても報われないとしたら、考えなさいよ。義務だからと耕地に尽くしても命を落したのでは何もならない。耕地には厳しい掟があるからね。監督はそれを命じているけど、内心はコロノたちに同情している筈だと言うのよ。背に腹は替えられないから、やりきれなかったら夜逃げも仕方ないんじゃないか。少し遠くへ逃避すれば不良農民だということで探したりしない。夜逃げした人びとでも今立派に成功している人がいる。日本人は、約束を重んずるけど、そうすることだけが生きる道ではない、と言ってなさった」
 除草の手を止めて溜息をついている母に律子は言った。母はコーヒー樹の間の畝に腰をかけて思案していた。しばらくして、
「お父ちゃんがどう言うかね」
 と、浮かぬ顔をした。
 田倉は酒や女にだらしない男であったが、反面、律儀な面も持っていたので、義務農年を中途で逃げ出すことに賛成するかどうか。

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