小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=30

 律子は溜息をついた。こういう時、要領のいい農夫は仮病を使うのだそうだ。新来の移民はそうも行かない。再び家を出て、職場へ向かうのだった。監督の命じたのは枯れたコーヒー株の横に新しく種を蒔く仕事だった。二〇×四〇センチ、深さ十センチぐらいの穴を掘り、それにコーヒーの実を五、六粒落とす。その周囲は水が溜まらぬように土を盛り上げ、上部に木片で蓋をする。小さな温室みたいに手間のかかる仕事である。
 そこへ、息を弾ませながら、隆夫が駆けつけてきた。
「あのう、親父が、親父が……」
 と、言葉にならない。
「どうしなはったの」
 田倉は訊いた。
「親父が監督と口喧嘩して、監督のファッコン(山刀)で斬られました。それで皆が仕事を止めて監督に抗議しよう、この際、日本人は団結してあんな毛唐をとっちめてやろう、と言っとります。田倉さんにも来て欲しいということで……」
「誰が、そう言うとるんや」
 相手が取り乱している時、田倉はわざとゆっくり構えて、煙草に火をつけた。一部始終を聞いた。田倉は、あまり気の進まない事柄ではあったが、八代とは同じ航海の間柄であり、とにかく隆夫と一緒にコロニア(入植者のコロニー)に帰った。
 八代の妻のつたえは興奮した口調で、
「ほんなこと、聞いてください。監督さんがきて、あの時間に仕事に出ろと言いなはった。うちの人はもう五時だし、出かけてもそぎゃん仕事はできなか。そんな無理言わんで皆を休ませちやりなさらんかと、コロノ(労働者)をかばって言いなはった。監督は馬の上からファッコンば抜いて振り廻しよる。わしは癪にさわったから、斬るなら斬ってもらいなと、うちの人ば押しやったと。そしたらどうな、本当にファッコンば振り下ろしたとですたい。田倉さん、この際、わしら話し合ってあんな監督を耕地から追い出すまでストに入ろう言うとります」
 彼女の話は当然の怒りともとれたが、事件は一方だけの話を鵜呑みにできないことを警察官であった田倉は知っていた。
「現場にいなかったので何とも言えませんが、威嚇だったんじゃないですか。こちらの人は表現がオーバーですから。それにしても傷を負わせるのはいけない。傷はどんなふうですか」
「包帯をして休んでいます。大したことはないみたいですが」
 横から隆夫が言った。

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