追悼文=ブラジルに導いてくれた岩崎透氏に捧げる言葉=大野恵介 ダイソーブラジル社長

大野さんと岩崎透さん(大野さん提供)

 自分のブラジルの原点でもある、東山農場主の岩崎透氏が今月6日に亡くなった。同氏との出会いがなければ、私がブラジルに来ることは間違いなく無かっただろう。
 「岩崎氏が三菱商事を退職し、家業を継ぐというので動き出しているので、一度会ってみないか?」と、知人を通じて紹介を受けたのは1999年春のこと。大阪の帝国ホテルのロビーで初めて岩崎氏と対面した日、浅黒い顔にワイシャツのボタンを2つ外し、そのホテルには不似合いな風貌ながらも、初めて人にオーラを感じた瞬間であった。
 岩崎氏と初めて出会った日から決断までに2年弱を要し、2001年1月にようやく渡伯した。
 それからサンパウロ州カンピーナスにあるコーヒー農場での生活が始まった。元々、私が入社する前に、コーヒー以外の様々なプロジェクトが進んでおり、それを私が担当することになるであろうという話であった。しかし、渡伯した時には全てそれらは消えて無くなってしまっていた。
 そのため、私は農学部出身とはいうものの、コーヒーの知識は皆無の名ばかり取締役として農場内で全くの除け者となってしまった。現場の従業員からの信頼を勝ち取るまでの数年間は辛い孤独の期間であった。
 岩崎氏は、目の前に来たものは全てチャンスと捉えて邁進するため、数々のプロジェクトが現れるが、なかなか実現は出来なかった。有機コーヒー栽培、野菜大規模栽培、ガーデニング、レストラン、観光事業、生薬栽培、アルコール輸出プロジェクトなど。
 最後には、コロニア貢献にと日本人村を農場の離れの土地に建設するという大構想プロジェクトも描いていた。このような様々な話がいきなり出て来ては、こちらに振られ、対応する日々であった。
 彼が最も好んだのが知人を農場に呼んでのシュラスコであった。平日、土日関係なくお客様を招待する。平日は、畑作業の後に急いでバイクを走らせて農場内の家に戻り、コーヒー畑の農作業で砂埃にまみれた服から着替えてアテンドをするという日々であった。大変ではあったが、農場に貢献できていなかった身としては、岩崎家の一員として皆様をお迎えするというのは、光栄な役目であり、全く苦痛ではなかった。
 また、領事館や日本の官公庁組織からの依頼で、各界著名の方々や日本の閣僚の方々が視察訪問されることも多く、その案内を完璧にこなすのも私の重要な仕事となった。
 今現在、どなたとでも動じる事なく接することができるようになったのは、あの頃の経験によるものではと思い、感謝する。
 日系社会貢献にこだわった岩崎氏のプロジェクトの中で成功したのが、NHKドラマ『ハルとナツ』の撮影現場の誘致ではなかろうか。
 岩崎さんとコーディネーターの塚本恭子さんが全面的に協力することになり、ブラジルの大半の撮影は東山農場で行われることになった。約1年間がかりのプロジェクトは、脚本を出来るだけ忠実に再現することを使命に行われた。私は全く荒れ果てた土地での農業シーンの再現などに取り組んだ。
 その中でも特に印象深いのが、綿花畑の作り込みである。

NHKドラマ「ハルとナツ」の撮影時の記念写真。大野さんが一番右、左から2番目が岩崎さん(大野さん提供)

 真っ白の綿花畑というインパクトあるシーンになるはずが、播種時期のズレと砂利のような最悪な土質の場所に植えたことが原因で、綿花は全く開花せず、ガクも開いていない真っ黒の綿花畑のまま、撮影せざるを得ない状況に陥った。
 NHKのスタッフは、「大野は良く頑張ってくれた。後はCGで何とかする」と言ってくださったが、岩崎さんは全く納得しておられない様子で私を更に追い込んできて、「綿花のガクを一つ一つカッターナイフで切って開けたらどうか」と真顔で言われた。
 そんなこと出来るわけがない。さすがに私も感情的になって、「では何とかしますよ!」と啖呵を切ってしまった。
 途方に暮れながらもそこで思い出したのが、田舎の方ではまだ綿花が収穫されずに咲いているということだった。交渉して1ha近くの綿花を茎の根本から切ってトラックに積み、持って帰った。数日後に撮影現場の畑に挿し木を行って、何とか撮影日には本当の綿花畑を出来上がらせた。

「ハルとナツ」の中の綿花畑のシーン

 それまで一度も岩崎氏に褒められたことはなかったが、その時は流石に岩崎氏も嬉しそうな笑顔をされていて、私は心の中では勝ち誇った気分になったのを思い出す。
 2005年に退職して、その後2012年からまた新しい縁があって日本から進出する「ダイソー」の立ち上げに携わることになり現在に至るが、私の今のブラジル流の仕事の進め方は、間違いなく東山農場での日々に学んだやり方であり、岩崎氏にいつかはしっかりと報告したいという強い気持ちがずっとあった。
 それが実現したのは、昨年2022年11月のこと。コロナ禍で自主隔離生活をされていた岩崎氏が農場から数年振りにサンパウロに来られるという話を伺い、昼と夜も共にさせてもらえる機会を得た。数年前に脳梗塞を患われ、少し不自由ではあったが、飲みながらの会話は岩崎氏の独壇場。仕事もダイソーの出店で頑張っているのを認めてもらえるかと思いきや説教をされる始末。相変わらずの岩崎節があっぱれであった。
 夜中までワインを一緒に飲み、店を出て、少し足元がおぼつかない岩崎氏の後ろを支えながら一緒に道路を渡ろうとすると、「おい、俺の前に出て注意深く車を遮るように歩くのが当たり前だろう」と注意を受けた。
 そうだ、彼は殿だったのだ。やはり殿に対する配慮がなかったと反省させられた。
 無事にホテルの部屋までお送りし、最後は優しく笑顔で送り出してもらい、長い長い1日が終わった。
 岩崎透さんという方は、根っからの商人の岩崎家と北原白秋の孫という文学者の両方の血が流れているまさにサラブレッドであろう。しかし、現実とのギャップで自分の思い通りにいかない事も多々あり、幾人方々とは軋轢が生まれることもあったと拝察する。
 このようにさまざまなエピソードを残された方は他に類を見ないであろう。そこを何とかするのが家来の仕事というのであれば、あの頃の私には全くの能力不足であった。今でも難しかったであろうが……。
 時代が違えばやはり何か大きいことを残されていたかもしれない。いつも彼は日本とブラジルの架け橋として両国に貢献したいと言っておられた。長年、岩崎氏に仕えたことも影響してか、私も全く同じことを日々考えながら行動している。果たして、岩﨑さんに良くやったと褒めて頂ける日は来るのか、いや来ないであろう。
 最後に飲んだときに、昔の農場時代の写真をお見せしたら、懐かしそうに「俺には一枚も写真が残っていないんだよ、まとめてくれないか?」と頼まれ、「次回お会いする時までにはまとめます」と約束したが守れなかった。
 その代わり、『ハルとナツ』の撮影の合間に行った東山農場中庭での懇親シュラスコの写真を一枚、出棺の前に深く眠る岩崎さんの顔の側にそっと入れさせてもらった。写真には岩崎さんが出演者の米倉涼子さんや遠い親戚に当たるという由紀さおりさん達と楽しそうに飲んでいる姿が写っている。
 きっと、天国で有難うと言ってくれていると思う。いや、「一枚だけじゃないだろ、ちゃんと整理して持って来いよ」と一喝されているかもしれない。
 出棺の際、先頭に喪主のマウロ農場長、そして激動の農場時代を一緒に支えてくれた、ドニゼッチ、クロービス、私の退職後に岩崎さんを支えてくれたオサムさん、そして僭越ながら私のこの4人で棺桶を運ぶことができた。そのズッシリとした手ごたえが岩崎氏との東山農場時代の重みのように感じ、本当に有り難く感じて涙を流してしまった。
 自分をブラジルに導いて下さった岩崎透氏、本当に有難うございました。    合掌

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