小説=流氓=薄倖移民の痛恨歌=矢嶋健介 著=12

 やがて、一軒の灯火もない家の前に馬車は停まった。田倉の家族は馬車から降りたものの、さて、これからどうして一夜を過すのか、荒野に投げ出された難民の心境だった。戸惑っているところへ、闇から人の足音が近づいてきた。手にカンテラを持ったその男性は、
「空家は蚤がいっぱいなので、殺虫剤を撒いておきました。今からでは何もできませんから、今夜はわしらの家に泊まりなされ」と、日本語で言ってくれた。地獄に仏といった感激だった。
 そこから二〇メートルほど東側に、その人の家はあった。家に入ると直ぐに、
「すみませんが、お粥を作って頂けませんか」
 と、不躾に田倉は頼んだ。見栄も外聞もなかった。空腹と疲れで弱りきっていたのだ。
「誰か、病気ですか」
 強度の近眼鏡をかけた、日焼したその人は自ら吉川照三と名乗り、傍らの妻を呼んで指図した。間もなく、茶碗やどんぶりなどが食卓に並べられ、足りない分は皿が置かれた。この家族も決して裕福ではなさそうだが、同胞ということで気を遣ってくれているのだ。
「どうですか、味は」
「わしらの地方のものとはちょっと違いますが、大粒でバラバラの飯や、回虫のようなうどんよりずっと上等ですわ」
 田倉は遠慮のないことを言う。緊張ずくめの何日かの後で、やっと辿り着いた気持のほころびいが、何か兄弟の家に来たような親しみを覚えるのだった。
「日本は、どちらですか」
「大和です」
「ヤマトって、どこですか」
「奈良県です」
 その言葉のやり取りを聞きながら、律子は一人苦笑した。日本語でありながらあまりうまく噛み合わないのだ。
「皆さんにカフェー飲んでもらえよ」
「カフェーって、コーヒーのことですね」
 そこへ、おかみさんがコーヒーとボリンニャという団子を持ってきた。
「こちらのカフェーは苦いですよ」
 この国では食事の後で、必ずコーヒーが出るという。急須を縦長にしたような瀬戸引きの入れ物と、小型のコーヒーカップに注がれたコーヒーは確かに苦かった。油で揚げた団子はべとべとしている。律子が二つに割ってためらっていると、
「こういう食べ物にも慣れていないと一人前の百姓になれませんよ」

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