連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第101話

・十一月二十一日 福岡県派遣農業研修事業の終わり(久保研介引率員)二十四回目。
・十二月十日 宮崎県受入れ研修生 横山ジョニーと佐元エリーザさゆり出発。
・十二月十八日 県派遣研修生松田朋和、鶴田康太郎(串間市)着伯、高野農場(イビウーナ市)に配耕。
・十二月十八日 森田千代子(九十四才)死亡 私達のパトロン森田正之の妻。
・十二月三十一日 年越し前に車を洗っていて、ライトのガラスで右小指を切って、今里のエジソンに連れられてサンロッケの救急病院で二針縫った。

 二〇〇三年(平成十五年) 慧六十八才、美佐子六十四才
・一月一日 今年の元旦は子、孫、ひ孫、皆集まって年越しをした。巳知治達は海へ遊ぶ。
・一月十八日 熊本出身の美佐子が初めてビラ・マリアーナの熊本県人会を訪問した。
・二月五日 慧の前下腹がふくれて来たので、ヘルニア(脱腸)の手術をした(赤嶺医師)。
・二月七日 巳知治は日本から帰って来て、心配事など重なってUTIに入院した。
・三月七日 大島八郎、国士舘支配人(六十九才)屋根から落ちて死亡(火葬にした)。
・三月十一日 悟が家の裏でオートバイ用の屋根を造り始めた。
・四月四日 森田全拓連常務とコチア青年との懇談昼食会(バロンルー・ホテル)。
・四月十三日 秋山パウロ敬一・さち子夫妻と話し合った。これはブラジルにおける私と美佐子の親替わりであった森田さんご夫妻の死後、その子息の武男君が彼が社長であったぶどう酒会社〈ビンニョ・カエテ〉を破産に追いやり、その上、そこの関係者に多大な迷惑をかけ、会社乗っ取りを計って自滅していた。会社も再起不能の状態にある。
 私達が住むサンロッケ市は一昔前は醸造用のブドウ栽培で有名な所で、醸造所も一〇〇箇所以上を数えた時代もあった。その頃ここに入植した初期の日本人達もブドウを植え、自分達のブドウ酒工場〈ビンニョ・カエテ〉を主に三人(橋詰太一郎、古川太一、森田正之)が中心になって設立した。業績も順調に伸びて、コチア産組を通じても販売を伸ばし、一時は日本のサントリー・ウィスキーと提携して、ここでウィスキーの調合とビン詰め、出荷までやっていた。会社社長も橋詰さんから森田さんに移り、その森田さんの死後、その息子の武男君が社長に就いた。あいにく、そのころからブラジルの景気後退が続き、〈ビーニョ・カエテ〉の業績も段々と後退を始めた。

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