フレウリ元サンパウロ州知事が死去=カランジル事件の際に在任

90年代にサンパウロ州知事を務めたルイス・アントニオ・フレウリ・フィーリョ氏が15日、心不全のため、サンパウロ市で亡くなった。15、16日付現地紙、サイトが報じている。
フレウリ氏は1949年にサンパウロ州サンジョゼ・ド・リオ・プレットで生まれ、サンパウロ州の軍警士官学校で学んで任務に就いた後、FMU法学部を卒業して刑法学教授やサンパウロ州検察局検察官などを歴任した。
1987年にオレステス・クエルシア・サンパウロ州知事(当時)に請われ、州保安局長に就任。その時に民主運動党(PMDB、現MDB)に入党した。当時のサンパウロ州では犯罪が社会問題化していたが、そのような状況下で採用した犯罪対策で評判をとった。1990年のサンパウロ州知事選にクエルシア氏の後継候補として出馬。パウロ・マルフ氏やマリオ・コーヴァス氏らを破って当選した。
在任中は水門建設を進めてチエテ・パラナ水路開通や、サンパウロ鉄道をCPTMとして公社化するなど、インフラの分野で注目を浴びた。
だが、1992年10月2日、サンパウロ市北部にあるカランジル刑務所で起きた収監者の大量殺害事件がフレウリ氏の知事時代の最大の出来事となった。この事件は、同刑務所第9棟で起きた囚人たちの暴動に対し、軍警のウリバタン・ギマリャンエス大佐が銃撃を命じたことで起こったものだが、この結果、111人の囚人が死亡するという、記録的な惨事となってしまった。
フレウリ氏はこの直後、「私が指示を出したわけではないが、同じ立場なら同様の命令を出していた」と語って物議を醸していた。
また、任期終盤には州財政で197億レアルの負債を記録し、州内の数10もの事業が止まるなどの混乱も起きた。94年のサンパウロ州知事選では再選は狙わなかった。98年、02年に連邦下議に当選したが、06年の選挙で落選して以降、公職に就くことはなかった。95年にブラジル労働党(PTB)に移籍したが、2011年にPMDBに復帰した。
遺族によると、近年は肝臓移植で体調を崩しており、自宅で亡くなったという。