連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第73話

 慶君は名古屋に生まれ、母、千容子、兄、洋が家を継ぎ、父は八〇年代の初めに亡くなっている。彼は日本大学農獣医学部在学中に一度ブラジルで農業体験研修をしていたので、もしチャンスがあればもう一度ブラジルで生活してみたいとの希望で、その方法を探していた。その頃、熊本に本社のある、南九州コカコーラボトラーズ社がサンパウロ州に農場を持っており、同社の派遣社員として、かれこれ十五年近くブラジルと日本で働いてきた。
 そして絵理子は国士館在学中も積極的に物事にぶつかり体験して自分をみがいて来たようである。例えば、京都で行われた世界剣道大会の親善大会にブラジル代表で参加したり、大阪で行われた在日外国人弁論大会で大阪市長賞を貰ったり、青年の船に乗って、グアム島や台湾などを廻ったり。雪国の友達とスキーを楽しんだりして、本当に充実した四年間であったようだ。
 さて、一九八八年六月十二日、絵理子は四年ぶりにブラジルに帰って来た。それには一つの大きな「おまけ」がついてきた。八〇才になる彼女のおばあちゃん。つまり、美佐子の母、政子を連れて来たのであった。政子のおばあちゃんの滞伯中、幾日も寒い日が続いて「たきび」で暖まった。七月四日にはるり子の三女、カミーラが生まれ、政子ばあちゃんが日本名を「朝香」と名付けてくれた。八月十四日には絵理子は姉、恵美と一緒に買ったばかりのサンパウロ市のサンジョアキンのアパートに引っ越して行った。

    一九八〇年代の旅の記録

 一九八一年から八七年までの記録のない七年間の中でも、旅の記録はあるので要点をまとめてみよう。
 一九八一年にワーゲンのパサーチの新車を買ったので、私はコチア青年の後輩である森田晃・かずみ夫婦を誘って、ゴイアス州のリオ・ケンテ温泉と、そしてブラジリアへの車旅行を行った。二組の夫婦による旅は楽しいものであった。
 その頃、コチア産組合にGP(グルーポ・プロヅトール)の組織があって、私達バルゼン・グランデではGPH(野菜生産者グループ)に依る先進地視察旅行で、遠くはミナス・ジェライス、ゴイアス、リオ・デ・ジャネイロ、パラナ各州まで足を伸ばして、研修したものであった。ほとんど男性だけの旅であった。
 一九八四年の十一月には西バイアのバレイラスにコチア青年を対象にしたセラード農業進出のための視察旅行にも参加した。私ももし可能なら行ってみたいとの気持ちがあったからである。だが、私の資金力では無理と言う事がわかり進出は諦めたのであった。

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