連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第37話

    コチア青年移住から十年間の日伯の出来事

 私達の移住して来た昭和三十年(一九五五年)ごろは戦後十年目で日本も敗戦のどん底から朝鮮戦争の特需景気などもあり、徐々に国力をつけて来つつあった。私が出発前に東京に数日滞在したころは街角のテレビ屋さんに人だかりが出来てプロレスの力道山にヤイヤイと応援していた。又、東京の暑い舗道をヴォルクスワーゲンのカブト虫車が騒音を上げて走っていた。私達の着伯後、″富士山の飛魚〟古橋・橋詰・浜口のトリオが世界の水泳界を席巻しブラジルにも来た。美佐子が花嫁来伯したころは、ミスユニバースの伊東、そして、当時の皇太子様と美智子様の御成婚の年でもあった。
 又、同じ年の一九五九年にブラジルではクビチェック大統領によりリオ・デ・ジャネイロからブラジリアに首都が移った。ブラジルでも工業化が叫ばれ、サンパウロなどへの都市集中のきざしがみえていた。
コチア組合もどんどん躍進し、日系社会も各地の日本人の活動も盛んになり、一九五四年にサンパウロ市制四〇〇年を記念して、日系人文化の中心、日伯文化協会が山本喜誉司会長を中心に設立された。
一九六〇年を過ぎる頃から日本は工業化が進み、田舎からの就職列車が東京へ、大阪へと高校卒や中学卒者を運んだ。いきおいブラジルへの移住青年が激減していった。
 日本の全国農協中央会とコチア産組で結ばれたコチア青年移民の人数枠を満たすのが難しくなった。

    独立後の事業の推移

 半アルケールのバタタ作りで独立した私達は割合に順調なすべり出しで、収穫毎にかなりの利益を生む様になり、植え付け面積も半アルケールがその夏作は一アルケール、そして次の年の秋植え輸入芋は一アルケールと、またその夏作は二アルケールとなり、一九六〇年、第二作目の十二月収穫した芋の利益で現在私達の住んでいる半分の土地を買うことが出来た。
 私達が独立した土地の地主、イリネウ・デ・モラエスの父親の土地で七アルケールを、当時のジープの新車六二〇コントスと現金二〇〇コントス、合計八二〇コントスで買ったのである。当時田舎で車を持っているブラジル人は珍しかったので、ジープをもらったアルジェウ(イリネウの父親)は毎日新品のジープに座って葉巻をプカプカくゆらすのが一番の楽しみだったとか。

最新記事