連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第31話

 色々な手続きが済み、森田さんにも挨拶していよいよ農場へ向けて出発である。そうしたら森田さんの配慮で私達と堀込さんのカップルはサンパウロ市までバスで行くことになった、つまり新婚旅行であるこの八〇㎞のバスの旅。荷物は森田さんのトラックに乗せて、堀込さんのカップルは前の座席、黒木のカップルは後ろ座席に肩を寄せ合って楽しい語らいの旅が出来た。サンパウロ市ピニェイロスの組合本部で森田さんと合流し、花嫁二人はトラックの前の座席に、花婿二人は荷台に乗って行く。サンロッケの町の手前から左に折れ、土の坂道にさしかかると雨で登れない。花婿二人、雨にぬれながら後輪にチェーンを巻きつける。暗くなってやっと農場にたどりついた。いい想い出の一日であった。
 その夜の泊まりは新郎新婦別々であった。これは千代子ママイの配慮で、次の日は近所の四~五家族の友達に来て頂いて、形ばかりの簡素なお祝いをしょう。それまではまだ夫婦ではない。ときついお達しであった。
 次の日は近所の区内の友達が来て下さり、農場の仲間達も一緒にシュラスコを焼いて、酒とビールとブドウ酒とグァラナと飲んで食べて私達の門出を祝ってくれた。
 その夜、私達ははじめて契りをむすんだのであるが、実際、私は女性とのまじわりははじめての体験であった。私はそれが自慢であり、誇りに思っていた。だから、その日の感激は強烈であった。
 次の日から美佐子は千代子ママイについてブラジルでの花嫁修業が始まった。コーヒーの豆を炒って、布で濾し、コーヒーを入れる。豚の脂でフェイジョンを煮る。地鶏の殺し方など、びっくりする様なことを色々教えてもらった。
 美佐子が着いて一週間が過ぎた頃のある日、バルゼン・グランデの組合倉庫のジープがやって来た。日本の農業雑誌、家の光のグラビア蘭に「南の花嫁」と言うタイトルで載せるので、是非取材させて欲しいとのことで、有名な飯山達雄カメラマンを連れてきた。そして私も含めて何枚もの写真を撮っていった。それが一九六〇年正月号に載って、日本のふるさとの父母達を感激させた。
 私は早速、独立の準備にとりかかった。あと一ヶ月は契約期限があるので、仕事の主体は森田農場であるが、日曜日は借地した土地に家を建てるべく、八㌔の道を歩いて往復した。そして、大体家の柱などが立って形が出来ると、森田農場の同僚の谷脇さんや森田君達に屋根ふきなど手伝ってもらった。そしてもう独立の日が間近になると、美佐子も連れて行って、家の壁塗りや井戸掘りを手伝った。それと同時に、来年一月に輸入種芋いもを半アルケール(約一・二ヘクタール)植えるべく種いもの注文も森田さんの裏書で来る様になっていたので、まず土地作りを始めねばと言うことで、近くに住む労働者(カマラーダ)に請負でロッサ(木の伐採)を頼んだ。

最新記事