連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第26話

 また、その生産物の精算勘定や前貸し(アジアンタメント)など、主任の判断で行われていた。生産資材への融資などの銀行業務も倉庫で出来た。コチア産業組合はこの様な部落体がサンパウロ州を中心にパラナ、ミナス・ジェライス、リオ・デ・ジャネイロ州に設立され、もちろんその地方に依って生産物の違いから、その業務や特色の違いはあったわけで、私達コチア青年が移住してきた始まりの頃でさえ、五千人以上の組合員を擁していたと思われ、その勢力をどんどんと拡張していた。特にコチア青年が組合員として生産活動に参加してからはそれにより拍車がかかり、その他の州へとどんどん伸びて行った。
 この南米一のコチア農業協同組合はその後、単協を一つのブロックとした中央会組織に変わって行くのであるが、その最盛期の一九八〇年から一九九〇年頃は組合員一万人以上、従業員一万人と言われる、バケモノ組織になっていた。
 さて、話は昔に戻って、私達が森田農場で働いた頃のコチア青年達の活動はどうであったのか。私は仕事一本で他の事は余り知る機会もなかったけれど、バルゼン・グランデにもかなりの数のコチア青年が配耗されていた。しかし色々問題があって、出入りがあったようだ。一時は青年とパトロンの話合い会まで持たれた事もあったと後になって聞いた。
 それと私達コチア青年にはどんな娯楽があったかと言うと、巡回映画が年に四~五回廻って来るので、皆でカミニョン(トラック)に乗って夜風に吹かれてバルゼン・グランデの倉庫まで観に行くのが一番の楽しみだった。それと、森田さん家には日本歌謡のレコードがあったので、それをよくかけて聞いた。仕事がきつく、夜へとへとに疲れ、本を読む気力は余りなかった。
 長距離の旅行は二〇〇㌔位奥地のサン・ミゲール・アルカンジョと言う所に、森田さんの隣の田鍋さんの二人の息子さんがバタタ(ジャガイモ)作りに行っていたので、そこまで森田さんのカミニョンで遊び見学に何回か行ったことがあった。広々とした所で土地も良く、五~六台のトラクターを持って、一度に何十アルケールのバタタを植えていた。消毒もいも掘りも機械化されていた。

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