連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第16話

 でも、私はこのチャンスを絶対逃したくなかった。現状で日本で頑張っても家の犠牲となって、あまり変化のない生活が続くだろう。母の苦労は十分解る。でも、今なら知足兄達も近くにいるし、手のかかる小さい子供はもういない。私がいなくてもあとは何とかやって行けると思う。この私のわがままを許して呉れ。と母の説得に努めた。私の気持ちが絶対変わらないとわかると、悲しい顔をしながらも承知してくれ、その後は私の旅立ちへ協力的になってくれた。
 私は母を説得する段階で、母の気持ちが賛成に向いてくれる様に、熊本の叔父、伝松に手紙を書いて、私の気持ちを伝えた。折り返しに返事が届いた。「母さんは大変だろうが、お前の決心に俺も賛同したい。これからは日本に暮らすばかりが能ではない。お前の海外雄飛を力づけてやりたい」とあり、ブラジルを旅した人のブラジル評もつけてあった。この段階で私には迷いはなかった。親友の黒木敏雄にも話した。彼もちょっとびっくりした様であったが「お前ならやれる。自分の道を突き進め」と力づけてくれた。
 私の部落に長年農協に勤めている柏田広美と言う男性がいた。私は早速、彼に手続きの要領など教えて頂き、宮崎県農協中央会の試験の日取りも決まった。
 昔、私の村ではきれいな衣服を着ると「なんだ、県庁にでも行くのか?」とひやかされたものである。この時の私にとっては本当に県庁に行くのに着ていく服がない。色々考えたあげく、義姉のいしのさんの兄が椎葉村に住んでいて、「私の兄の背広を借りたらいいよ」と言って借りてくれた。背広などこの二十才になるまで見たことはあっても触ったこともない私だったので、勿論買う気もないし金もなかった。借りた背広は大きく私にはズブズブで、あまり格好は良くなかったけど、勇んで試験に臨んだ。面接が主の試験を受けて、発表の日を待った。一九五五年六月十六日、富島農協の柏田広美主事から合格の通知を受けた。もうこうなったら後退は出来ない。「合格通知を共に、来る何月何日から宮崎県高鍋の伝習農場で、ブラジルの予備知識や実際の農業の体験講習会に参加する様に」とのことであった。(六月二十七日~七月三日)。 この講習会は、日本の北半分の合格者は福島県白河で受け、西半分は宮崎県高鍋で受けることになっていた。私にとっては一番近い所での講習で幸いであった。
 講習所での生活は厳しかった。食べ物は質素で麦飯であった。そこにブラジルのコチア産業組合理事の山下亀一氏が講演にやって来た。たっぷりと太ってかっぷくのいい人だった。私が会った、ブラジルで生活している初めての人であった。ブラジルの生活状況や私達が渡伯して、どの様な生活が待っているのか等話してくれた。

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