連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第10話

 父、弥吉は変なところで潔癖で金よりも名を重んじるところが強く、自分たちが主導する組合からあまり金を取らずほとんどボランティアに近い奉仕で仕事をしていたようだ。

   中学校卒業、そして重労働の始まり

 その様にわが家はいつも金不足で私が中学を卒えると早速、高校進学を諦めて仕事をして家の収入を助ける必要にせまられた。その頃は日知屋開拓の事業も八分通り出来ていたけど、まだあと二年位はかかるだろうと言われていた。そこで仕事を始めた私は十五才で体は人より小さかったけれど、持ち前の人より強い負けん気で、誰よりも仕事をした。
 不慣れなスコップ使いでも、トロッコ一台分の土を積むのに一度も腰を上げずに山盛りに積んで皆をびっくりさせたこともあった。また、左官の手伝いをする時、師匠から「左官のこどりか長者の猫か」と言うとおり左官の手伝いは一番楽な仕事だと手厳しく怒られながら働いたこともあった。そのかたわら農業も一人前にこなした。
 その頃はあまり金肥を使わず、下肥がかなり巾を効かせていて、私は近所から下肥を分けて貰う話し合いで、数件の家の便所を汲み取って歩いては田や畑に施用した。
 裸足で畑仕事すれば足の裏に線虫が小さな穴を開けた。重い肥樽を竿でかついで山の畑にかつぎ上げる仕事は重労働であった。里芋を水できれいに洗って、それをリヤカーに積んで、朝暗い中に家を出て二十㌔離れた延岡の町まで売りに行ったこともあった。
 家から三キロ位離れた牧山の岬に近い白浜の笹山の開墾にもずいぶん苦労した。私の小母の夫、柏田初冶おぢさんと隣同士で競って開墾したものであった。このように私はこの年代から体を酷使して来た。
 十分な栄養も採れない成長期を過ぎると重労働の毎日であった。でも、この頃になると、からいもが主体ではあったけど何とか腹一杯食べられた。
 この様に、中学を卒えて一年が過ぎる頃、やっぱり高校だけでも出ないと今から生きていく上で色々と不利が生ずるし、学力をつけたいと思い、仕事をしながら学べる、富島定時制高校農業科の夜間部に入学した。毎晩四時間授業で四年間で卒業する。もちろん単位制であまり欠席したりさぼったりすると卒業が遅れることになる。
 農業科なので実習も必要だった訳だけど、ほとんどの生徒が仕事持ちだったのでその点はあまり厳しくなかったようだ。一日中の重労働でぐったりと疲れた体にむち打って、自転車に乗り、重たい足でペダルを踏んで四キロの道を往復する四年間だった。授業中、眠気が来て、勉強の妨げになるのはいつものことだった。

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