【日本移民の日特集号】コチア産業組合と下元健吉=創立95周年、没後65周年の節目=59歳で亡くなった拓人の生涯辿る

生前の下元健吉氏

 南米最大と言われたブラジルの農業協同組合「コチア産業組合」が1927年に設立され、今年で95年の節目の年を迎えた。また、創業者・下元健吉が57年9月に59歳の若さで亡くなってから、65年もの月日が流れている。日系社会の大きな柱だったコチア産業組合中央会は残念ながら94年9月末に解散し、その経緯については外山脩氏が書いた『百年の水流』に詳しい。ここでは主に、偉大な指導者だった下元健吉に焦点を当てる。また、サンパウロ市内に現存する「シモモト・ケンキチ通り」や中央会跡のジャグァレー大通り周辺など、縁(ゆかり)の地を辿ってみた。(敬称略)

◆コチア産業組合概略 

1994年9月末解散直後のコチア産業組合中央会

 コチア産業組合は1927年、サンパウロ市近郊で「有限責任株式会社コチア・バタタ生産者産業組合」として創立し、33年に「コチア産業組合」に改称。当初、83人の創立会員で始まった組合は農産物の売買だけにとどまらず、加工工場や紡績工場の建設、病院経営のほか、ブラジル内陸部の大規模農業開発を目的とした「セラード開発」や輸出業務など様々な分野に投資・進出して巨大化。ブラジル全国に及ぶ中央会組織として、創立60周年の87年には組合員約1万4千家族、従業員1万人もの人員を擁したと言われる。しかし、80年代のハイパー・インフレなど、ブラジル経済不況・農業不振の影響を受け、組合の経営も悪化。94年9月末には解散を余儀なくされ、67年間の歴史の幕を閉じている。

◆健吉の生い立ち

モイニョ・ベーリョ時代の下元家族 左端が健吉氏

 1897年12月24日に高知県高岡郡の農家に生まれた健吉は、父の事業の失敗により、兄・亮太郎(りょうたろう)夫妻とともに1914年2月25日、竹村商館の第6回移民として「帝国丸」で神戸港を出航し、同年5月11日にサントス港に到着。その後、すぐにサンパウロ州ソロカバナ線ピラジューのコーヒー農園「ボア・ビスタ耕地」に配耕された。しかし、同地での労働は厳しく、翌15年9月にコチア郡モイニョ・ベーリョの「コチア村」に借地して転住した。
 同地域は作物の出来にくい赤土の痩せ地だったが、下元一家はサンパウロ市の屠殺(とさつ)場で出る残物を肥料として使用することに着目し、コチア村で共同購入して肥料を使用したところ、大きく増収。行き詰まりだった村のバタタ生産が大きく飛躍するきっかけとなった。
 また、ベト病蔓延問題の対策として「ボルドー液」という予防薬があることを聞き知った健吉は、サンパウロ市内を駆けずり回って同液の製法を聞き込んだ。自分の土地で試験した上で近隣の畑にも樽を担ぎこんで散布するなどして薬効を証明し、地域のボルドー液普及に貢献した。第1次世界大戦でブラジルが世界的な好景気の波に乗ったこともあり、農家の生産性向上と、好況によるバタタの価格高騰により、コチア村産のバタタはサンパウロの市場で一躍、有名となった。
 25年12月、健吉は11年ぶりに日本を訪問し、甲子(きのえ)と結婚している。当時の日本では政府の肝いりで産業組合運動が展開されていた時期で、健吉も滞在中に日本の産業組合組織についての知識を得ることになった。

◆コチア産業組合創立

 1927年、「日伯新聞社」社長の三浦鑿(みうら・さく)が「在サンパウロ日本国総領事館で産業組合結成に対して補助金を出すと言っている。コチア村で組合を設立してはどうか」と日本から戻っていた健吉に勧めた。さらに、自社の新聞紙面で組合結成賛成論を掲載した。
 訪日して組合の知識を多少なりとも得た健吉は早速、コチア村の青年会を通じて若者たちに組合の必要性を熱く語り、村の有志を説得して回った。その結果、27年12月11日にモイニョ・ベーリョのコチア小学校で組合創立総会が開催され、83人の創立会員により、後の「コチア産業組合」の前身である「有限責任株式会社コチア・バタタ生産者産業組合」が誕生。当時29歳だった健吉は、若くして組合の初代理事長に選出されている。
 翌28年1月、本格的に活動を開始したバタタ組合は、その拠点としてサンパウロ市ピニェイロス区の市場前に1万平米の土地を購入。健吉は組合の理事長に選任されてからというもの、家庭を省みることなく組合の仕事に没頭し、コチア村とピニェイロス区の市場を駆け回った。組合設立後約10年間は厳しい経営状況だったが、産業組合としての信用を得るようになり、組合員数も増加。33年8月に「コチア産業組合」に改称した。
 41年12月には太平洋戦争が勃発。ブラジル政府は翌42年1月に枢軸国側の日本に対して対日国交断絶を宣言していたことから、日本はブラジルの敵性国家となっていた。ブラジルに住む日本人や日系団体および企業等に対する取締令も発令され、「コチア産業組合」もブラジル政府のブラック・リストに載るようになった。
 健吉は当時のブラジルの首都だったリオ市に腹心である弁護士のマノエル・フェラース・ダ・アルメイダを派遣し、ブラック・リストからコチア産業組合の名前を除外させるように交渉。フェラースを名義上、組合の理事長に就任させた。フェラースはブラジル側の人脈を駆使して、コチア産業組合を牽引したが、裏では健吉が主力を持って操作した。そうしたことで、コチア産業組合は他の日系団体のようにブラジル政府に資産を凍結されず、生き延びることができたのだった。

◆健吉の人間像

組合のテニス仲間と健吉氏(前列中央)

 組合の激務の一方で、健吉は若い頃からテニスにも没頭した。健吉がテニスを始めた目的は、当時、次第に増加してきたコチア産業組合の従業員が暇を持て余して、悪い遊びに走ることを憂慮し、その精力の捌(は)け口として思いついたという。
 また、健吉は1942年頃からラン栽培にも興味を持ち始め、専門書を取り寄せて徹底した栽培法に着手。夜を徹して勉強したほか、従業員を誘って各地での山採りを行い、各種それぞれの自生環境を追究した。さらに、独自の栽培法を発表してラン品評会でたびたび優勝したり、数千種のランの育苗や人工交配も行うなど、専門家をしのぐ一流のラン栽培家として知られるようにもなった。
 健吉は早い時期からブラジル国籍に帰化していたが、日本およびその延長でもあるブラジル日系社会に対する関心は人一倍あったという。より良い社会をつくろうとの信念を持ち続け、日伯両国間の事柄についても、一方が有利で他方が不利となるようなことに対しては断固として反対し、闘争を行ってきた。
 青年たちを集めては議論を交わし、常に根本的なものと派生的なものの区分を立て、自分の見解を遠慮なく述べた。小細工のある議論にあうと徹底的に粉砕し、世間的な外交辞令は一切使わなかったため、一般からは非礼、強引などの非難を受けることもたびたびあったという。また、健吉の真意を理解できなかった人などからは誤解や敵意を招くこともあった。
 しかし一方で健吉は、よく他人の意見を取り入れ、新しい理論や事柄に対する理解力と消化力は極めて旺盛で、一度「良い」となれば、すぐさま実践に移す実行力は、日系社会の著名人の中でもズバ抜けていたようだ。
 そのほか、健吉は42年1月にコチア産業組合を通じて、後のブラジル空軍となる「アエロ・クルービ(飛行クラブ)」にセスナ型飛行機1機を寄贈したというエピソードもある。第2次世界大戦中の混乱した時代にあって、当時からブラジル国内でのコチア産業組合の未来の行方を見越した行動を実践していた。

◆「勝ち負け抗争」

 1945年8月に第2次世界大戦が終結後、ブラジル日系社会では情報不足から「日本大勝利」のデマが拡散した。日本の戦勝を信じてやまない「勝ち組(戦勝派)」と、敗戦を認識していた「負け組(認識派)」の間で約10年に及ぶ「勝ち負け抗争」が勃発した。そうした中、毎夜のラジオの情報で日本の敗戦を聴き及んでいた健吉は、「日本が戦争に負けた」という真実を認識していた。
 そのため、日本の戦勝デマが流布されたことを知るや、逸早く日系社会の有志とともに事実を伝え、「認識運動」を展開。デマを信じたコチア産業組合の組合員や一般人を説得させることを目的に、自分で車を運転してサンパウロ州奥地やマット・グロッソ州などを回っていた。一方で、日系社会の大多数だった「勝ち組」派の暗殺者リストに健吉の名が載り、勝ち組関係者から、つけ狙われることも度々あった。

◆ジャグァレー地区への進出

ジャグァレー地区に建設中の中央会本部

 かねてから、バタタ中心の単作農業経営の危険性を察知していた健吉は、多角農業の必要性を常々、組合員に説いていたという。多数の組合員の反対を受けながらも設置した蔬菜(そさい)部をはじめ、鶏卵販売所なども併設。サンパウロ市民のさらなる消費量拡大と生活の発展を当時から予測していた健吉は、ピニェイロス区にあった組合本部を広大なジャグァレー地区の工業用地に移転するため、1946年に4万2千平米の土地を購入。同地に肥料工場と飼料工場を建設した上、さらに55年には販売事業部の敷地として同地の隣接地の6万平米にも及ぶ土地を莫大な資金で購入するという大英断を行っている。
 
◆八面六臂の活動 

 第2次世界大戦後の1952年、日本・ブラジルの国交が回復。「勝ち負け」抗争などで混乱を極めたブラジル日系社会も50年代に入って、状況は収まりつつあった。戦後の移民問題に逸早く関心を示していた健吉は、日本の農村の次男、三男対策とコチア産業組合の後継者育成のため、ブラジルへの独身移民導入の構想を立案。日伯両国政府の間に立って折衝を重ね、ブラジル側から日本の青年移民1500人導入の許可を受けた。日本側も全国農業協同組合中央会が中心となって青年たちの送り出しを約束し、55年、日伯二大産業組合の提携事業として「コチア青年移民」の導入が決定した。
 54年には、サンパウロ市制400年記念祭が開催され、記念イベントの一環としてサンパウロ市のすべての農業協同組合が参加しての「産業組合パレード」も実施された。約200台に及ぶ山車(だし)を連ねての行進の中でも、特にコチア産業組合の山車は52台も参加し、健吉の意気込みは相当なものだったという。
 さらに、57年4月27日から5日間にわたって、コチア産業組合創立30周年を記念した農業展覧会がサンパウロ市ジャグァレー地区の組合本部倉庫で開催され、延べ約35万人もの人々が来場した。健吉は自ら陣頭指揮を執り、花卉(かき)展場内に設置された日本庭園の設計も行った。そのほか、庭園に使用する巨石や苔(こけ)を集めるために、自分で車を走らせて各地を回り、造園の際には巨石を運ぶ手伝いも自身で行うほどの熱の入れようだったそうだ。
 
◆59年の生涯を閉じる

健吉氏の葬儀に参列したたくさんの人々

 健吉は、組合創立30周年記念農業展覧会以前から高血圧症を患っていたにもかかわらず、周囲の人々の忠告も意に介さなかった。移民拓殖事業の指導をはじめ、組合事業部門拡充に備えた内部組織強化や、1954年のサンパウロ市制400年祭、58年のブラジル日本移民50周年祭典に向けた準備など公式事業にも参画。休む間もなく、病(やまい)を押して努力を続けていたことが、健吉の心労に拍車をかけた。
 57年9月25日午後1時、健吉は組合の月例評議員・主任会議に出席する間際、本部理事室で突然倒れた。駆けつけた人々に「皆でコチア(産業組合)を守ってくれ」との言葉を遺し、59年の激動の生涯を閉じた。翌26日に執り行われた組合葬では、自ら育て上げた数百のランの花に包まれ、家族をはじめ、故人を慕う数千人の会葬者に見守られながら、サンパウロ墓地に埋葬された。
 健吉の没後間もなく、日本政府から勲五等双光旭日章、ブラジル政府から国家功労賞がそれぞれ贈られた。また、サンパウロ市議会は、ジャグァレー大通りと交差する組合ゆかりの通りを「Av.Kenkiti Simomoto(下元健吉大通り)」と名付け、健吉の偉大な功績を称えたのだった。

旧コチア産業組合中央会跡を歩く=「夏草や兵どもが夢の跡」

 朝から快晴となった2022年5月25日、サンパウロ市ジャグァレー大通り沿いにあった旧コチア産業組合中央会跡を訪れた。トラックなどの大型車や乗用車が大通りを行き交う中、同大通り1485番、1487番地に旧コチア産業組合中央会のかつての正門があった。しかし、コチア時代の栄華を誇った建物等はすでになく、門の隙間から中を覗くと更地(さらち)となっており、辺りには雑草が生い茂っていた。
 門番のブラジル人に「以前、ここにコチア産業という組合があったことを知っているか」と聞くと、「コチアのことは知らないが、以前ここはグローボ(局)の土地だった」という答えが返ってきた。
 組合が解散後に清算作業を行い、同所はブラジル大手メディアのグローボ局関連会社の土地となっていたが、今はその土地も売りに出されたようで、新しいビルが建つ予定だと門番が教えてくれた。
 旧正門から南西方向に1ブロック半離れた通りが「Av.Kenkiti Simomoto」であり、ジャグァレー大通りとの交差点の信号横には「Kenkiti」の看板文字があった。同通り沿いのかつての組合の敷地だった場所には現在、大型トラックが数多く停められ、倉庫のような建物の内部には空(から)の木箱が高く積まれていた。
 交差点からさらに北西方向に進むと、組合時代に使用されていたと思われる建物があり、外壁には薄っすらと「COOPERATIVA AGRICOLA DE COTIA」の文字が見えた。しかし、その建物も老朽化がひどく、窓ガラスが所々割れていた。
 「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」―。松尾芭蕉が詠んだ俳句を地(じ)でいくのが、現在の旧コチア産業組合中央会跡の状況だと実感した。(松)

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