我れ、生まれ出づる国を訪れる1=ポルト・アレグレ 杉村士朗

 1998年10月、私は38年ぶりに母国を訪問した。
 1960年の春、20才になった私は旅費の政府補助金を受けて、横浜港でオランダ貨客船に乗り、ケープタウン経由、ブラジルのサントス港にて下船した。
 私の形式上の身分は、単身呼び寄せ農業移民であった。
 それ以来、波乱ある人生をたどり、こんにち85才となった。
 今なお青春時代の「世界の隅々を一人で放浪したい」との旅心を失っていない。
 今回は、日航機で成田へ着いた。
 東京へ向かわず、犬吠埼に第一夜の宿をとった。
 日本の海が見たかったのである。
 翌日、早起きして日の出を迎え秋晴れの下に広がる太平洋を見た。
 美しい!チリ沖やカリフォルニア沖を洗う同じ太平洋であるが、彼の地の海よりも明るく暖かい色調をしていた。
 そしてエーゲ海や地中海、またカリブ海の輝きはないが独自の美しさがあると感じた。
 半日海をみつめて幸福な時を過ごした。
 それから東京へ行き、五反田駅近くの安旅館に泊まった。
 風呂に入ると軽石があったので、足の裏をこすった。
 38年の遅れを取り戻さんとあまりにも入念に力を込めてこすり過ぎたため、翌日から足がひりひりと痛んだ。
 夕食に駅横のガード下に屋台を見つけ、ラーメンを食べた。
 貧しい少年時代に美味しいと感じ、汁の一滴も残さずむさぼり食べた。食物を今、どのように感じるか、それが知りたかったのである。
 昔と同じように、二切れのチャーシューと少しのシナチクが添えられた、昔と同じ作り方で出来上がったラーメンを食べた。
 一つもおいしくなかった。いや、おいしく感じなかった。それは、味が変わったからでなく、私が変わったからである。
 年々歳々 花相似たり
 年々歳々 人同じからず
 (作詩者名忘れました)
 それから、大衆居酒屋に入った。
 「いい酒を下さい」
 私は、生まれた国では酒を飲めるだけの金を持った事がなく、生まれた国の酒の味を知らなかった。
 東京の初夜には、ぜひともこれが日本の酒と言える酒を飲みたかったので、そう注文した。
 「うちでは、良い酒はありません」と、中年の給仕女性がそっけなく返事した。
 私は、店を変えようと思ったが、相手の正直さを意気に感じ、それではアレを下さいと反射的に「産地直送大樽出血大サービス250円」とある脇の張り紙を指した。
 出されたコップ酒は、うまいのかまずいのか判断に迷った。首を左右にかしげながら、枝豆をつまみに3杯の冷酒を飲むと頭にモヤがかかったような怪しげな酩酊状態になった。
 ビールや葡萄酒を飲むのを楽しみに、ヨーロッパ旅行をしたくらいであるが、これまで経験したことのない、なんとも納得のいかない酔い心地だった。
 翌日、強い頭痛に悩まされた。
 私は、東京千代田区神田生まれの下町育ちである。
 東京の変貌ぶりは激しかった。とりわけ、超高層建築物の林立する新宿は、まるで異国のように変わっていた。
 私の記憶にある新宿は、薄暗い駅の周辺にゴミゴミしたマーケット街が連なっていた。
 そのひと隅に進駐軍兵士宛て英語の恋文の代筆をする「恋文横丁」があったころである。
 その新宿で、何処へどうやって行くのかわからず、迷い子になった。
 人混みにもまれ、通行人と衝突しないよう身を避けるのが精いっぱいという情けない状況におかれた。
 この新宿にくらべれば、始めて訪れた言葉の不自由なパリやロンドンの方がはるかに身近に感じられた。
 まさに、「我、新宿の異郷にあり」の心情だった。
 その一方、昔から変わらない見慣れた風景があった。
 上野公園の浮浪者の群れがそうだった。
 彼等のなかには、「生きていてどうもすみません」とでも言いたげに、神妙な顔つきをしている者もいるが、反対に「わしは、あくせく働くしか能のない、お前等みたいな馬鹿者ではないぞ!」と、言わんばかりに、朝から仲間と酒盛りをして意気揚々としている者もいた。
 私は、彼等を見て、なつかしく、そして嬉しかった。なぜなら、彼等がそうやって、浮浪者として生き延びていけるのは、ただゴミ箱の残飯をあさっているからではない。
 彼等を気の毒に思い、“他人の痛み”に無関心でいることが出来ず、自分に出来る事として、食べ物、その他を分け与える人間的暖かさと優しさを持った日本人がまだいるという事実のまぎれもない証拠だからである。(つづく)

 

最新記事