大津波、襲来(3)
戦時下、日系社会は経済面でも締め上げられた。それは直接的には、国や州の政府機関によってなされた。
例えば開戦の翌日には、ブラジル銀行から枢軸国系の銀行に監査官=インテルヴェントール=が派遣され、その業務に干渉し始めた。
次いで政府側は翌年二月、いわゆる資産凍結令を発し、枢軸国系の法人・自然人の資産の移動にきびしい束縛を課した。
資産の移動とは、銀行預金の引き出し、不動産の売買などのほか事業上の商取引も含んでいた。
それ以外にも、主だった枢軸国系企業は、重大な制約や圧迫を受けることになった。
その件に関し、リスタ・ネグラ=ブラック・リスト=なるものが、当時を記録した資料類に登場する。
主だった枢軸国系企業の名をリスト・アップしたものである。
その企業には国や州の政府機関から監査官が送り込まれ、役員もブラジル国籍所有者に限定することになっていた。
中には清算=解散=あるいは接収されたところもある。
そのリスタ・ネグラであるが、どういうものであるかを明確に説明した資料がなく、後世の我々には判り難い。
政府側が作成したものであるが、資料類は「米英のリスタ・ネグラ」という表現を一様に使っている。その表現からすると、米英の公館がリスタを作成させ、さらに種々の口出しをしていた…と観てよかろう。
これも、前章で記した準戦場に於ける戦い、策動であり、公館側にすれば、本国に対する忠誠であったろう。
さて、当時、主たる日系企業といえば、まず四章で記した御三家…つまりブラ拓、海興、東山であった。いずれも日本の資本による法人であり、リスタ・ネグラに載っていた。
以下は、その受難の様(さま)である。
ブラ拓清算、南銀売却
ブラ拓は、その本体は端(はな)から清算を命じられた。(清算業務は長引き、終了は戦後になった)
ただ事業部門は様々な分野に広がっており、法的には別法人になっていた。
銀行部、商事部、鉱業部、技術部、綿花部、製糸部である。
銀行部については後述する。
商事、鉱業、技術、綿花の各部は開戦で仕事そのものが出来なくなった。ために自ら閉鎖した。(技術部を除く三部は日本への輸出を事業としていた。技術部も開戦の影響が大きかった)
製糸部は、操業開始以来、経営上の困難に見舞われ続け、結局、一九四〇年に完全にブラ拓から分離して、ブラタク製糸という独立した企業になっていた。
その経営者たちは日本人、資本金も彼らの名義になっていたが、以前通り操業を続けることができた。
これは生産する生糸・絹糸が輸出されていたからである。輸出は政府が奨励していた。
問題は、銀行部だった。
一九三七年、小銀行カーザ・バンカリア・ブラタクとして創立され、一九四〇年、本格的なバンコになり、南米銀行と改称していた。サンパウロ州内の十五カ所に支店を置いていた。
ここが開戦と同時に、危機に直面した。
本店に監査官が乗り込んで来て、アレコレ指図を始めた。
一方、店頭では、朝九時に店を開くと、預金を引き出す人が相次いだ。十時には、その数が俄然増え、受付け担当者では間に合わなくなった。
そこで全員が応接することになった。が、元々その係でない者は預金残高の照合に不慣れであった。(間違わねばよいが…)と管理者はヒヤヒヤしていた。
午後になると、引出し客はますます増え、店内は人で埋まり、店外にあふれ、交通整理の警官が来るほどになった。
とても残高照合の余裕がなくなった。仕方ないのでそれを省いて、顧客の持参の通帳や口頭での説明だけで、どんどん支払った。
顧客は残高全部を引き出すので、極めて危険であった。その日の出納を終わったのが夜八時頃である。
調べてみると、過払いは一件もないことが判った。預金者の正直さに、ビックリしたという。
しかし、以後の政府側の出方が深刻な懸念となった。
ブラ拓本体の様な厳しい処置は免れるだろうとも期待していた。
しかし「やはり危ない、近くやられるらしい、対策を考えろ」という情報が入った。