特別寄稿=松原移住地の入植初期の思い出=柳生豊彦=(上)「やれこれがブラジルですかね」

(※中村四郎氏論文『「松原移住地」・移住者たちの証言』より、同氏が1998年に実施したアンケート調査に対する柳生さんの回答全文を、中村さんの許可の元転載。柳生さんはすでに故人)
1953年5月15日、神戸港出港、知事見送り
1953年5月15日神戸港にてインタオーションルイス号(約2万5千トン級の船)に我々移民(第一船発)乗船。見送る人も行く人も互いに別れを惜しみ、テープが切れるともう再び逢えるか逢えないかわからない。出航するはずが、15日夕方、和歌山県知事小野真次様が見送りに来てくださった。ずらりと並んだ二段ベッドに私と一緒に座りながら知事さんが目をやり、(とても狭いのう)とふとつぶやいたのを思い出す。
段々と日が沈んできたが、なかなか出航せず見送り人も段々と人影が少なくなってきた。甲板に立っている者、ベッドに寝ている者、出航は今か今かと待ちくたびれている人、などさまざまだ。
16日午前1時、やがて汽笛と銅鑼の音がけたたましく響き、誰の目にも涙が光っていた。丁度私の誕生日の日でもあった。
神戸港出航後、香港、シンガポール、ダーバン、ケープタウン、リオデジャネイロに寄港しつつ、7月8日54日間の航海が終わり、サントス港に着いた。移民達は南米ブラジルの大地に初の一歩を印すことになった。しかし、54日間の長い船旅は決して安隠なものではなかった。
途中で白系ロシア人達が大勢乗船して来たり、またインド洋の波は聞きしに勝る激しさだったり、いろいろあった。特に波はしばしばルイス号を翻弄し、船客を恐怖に陥れた。波はとても高く、三角形のピラミッドのようで遠くの方を見ると島のように見える。こいつがぶつかるのだからたまらない。窓等は全部閉めた。船に弱い人達には誠に気の毒であった。あっちでもこっちでも酔ってゲーゲーと座り込む人が多い。島影一つ見えぬところで誠に心細い。
7月8日サントス港、旧移民から「日本は勝ったか、負けたか?」
7月8日、最終目的港サントス港に着いた。前日から移民達は皆落ち着かない風で、しきりにごそごそと荷物をいじりだしていた。多分、夜税関を通り抜けたと記憶する。大勢の先輩移住者の出迎えを受けたが、顔が黒人と見まがうほど日焼けしている人もいた。薄暗い中で、旧移民がこの汽車に乗りなさいというがままに乗るが、木の腰掛でごつごつして戦争中の日本の汽車より座り心地はよろしからず。一つの腰掛に、僕と母と家内と生後9カ月の赤ん坊の長女と、とても座れるはずがなく、わたしは腰掛の下にもぐって寝たが、線路の継ぎ目に来ればコンコンと頭がたたかれ眠れるはずがない。
ひどいのは汽車の遅いこと。座席が固いうえに、窓からは機関車の焚く薪の火の粉が遠慮会釈なく飛び込んできて、うっかりすると衣服が焼かれるのである。そうかといって窓を閉めれば、気温が高いので暑苦しくてやりきれない。これではとてもマット・グロッソとやらに連れて行かれるのが不安である。居眠りどころではない、油断も隙もならぬ旅で、これは予想外であった。発車したかと思えば後戻りしたり、駅のないところに止まって1時間も2時間も動かなかったりすることもあった。何か故障でもしたのだろうか、とわざわざ汽車から降りてみると、機関士達は川べりに座って魚釣りをしてわいわい言っている。「やれやれこれがブラジルですかねえ」とそばの人が言ったので、「そうでしょうねえ」と答えた。
鉄道沿線の風景は大陸的であった。コーヒー園、地平線まで続く大牧場で草を食べている牛の大群、ミカン畑、緑の絨毯を敷き詰めたような広い広い砂糖キビ畑、と。夕方になると気温が下がって涼しくなった。煙と火の粉は依然たるものであったが、夜は闇の中でそれは花火に変わった。花火が窓外を流れ去る光景は、あたかも千万の蛍が乱れ飛ぶかのようだった。これはまた予想外の美観であった。汽車は悠揚迫らず走る。駅での停車は予想つかないなど、一行の誰もが自分は性急な人間だと思っている人はいないのだが、皆いらいらさせられている。
顔を見合わせて、苦笑に不快を紛らせるのが精一杯である。急峻な山々があり、高原を支える断崖をなしているのだが、列車は絶壁というに近い山腹にピタリと吸い付く形でうねりくねりながら気長に登っていく。
途中バウルという街につき、この駅より先はノロエステ鉄道といってサンパウロ州、マット・グロッソ州を横断して、隣国のボリビアまで行く鉄道であるが、それに乗る。我々は戦後第1回目の移民であるためか、各駅毎に多数の旧移民の方々の出迎えを受けた。それは苦しい戦争に堪えてきた私達には心強く感じた。
一番困ったのは旧移民の方々の質問で、日本が戦争で勝ったのか、それとも負けたのかということだった。

5日間の汽車旅行を終え、更にトラックへ
5日間汽車の旅を終えて最終地点イタウンというとても辺鄙な殺風景な駅に着いた。誰も彼もが足が痛い、腰が痛いとフウフウいい、もう夕方であった。旧移民の方々がトラック3台を並べて、「このカミニョンに乗ってください。ドウラードスに行きますから」と言ってきた。またこれからどれだけ乗るのかと思い、皆それぞれの荷物をトラックに積み、分乗した。再び車の人となるが、土煙を巻き上げどんどん走るので、誰の顔も汗と赤土のほこりで真っ赤である。灌木の中をトラックが走る。
60kmほど走っただろうか。ポツンポツンと家らしいものが見えてきた。45年前はあまりブラジルで名も知られていない寒村であった。当時ドウラードスには日本人会というものがなく、新移民がこちらに入植するというので急に日本人会ができたらしい。初代の日本人会長は熊本県出身の西村嘉平治さんだった。もう夜中だったと思うが会長さん宅で22家族の人達が夕食をいただいた。夕食のときの会長さんの挨拶に、「あんた方ブラジルにきて、日本にいるよりブラジルの方がよかバッテン」という言葉があり、こちらは腹がすいているので「バッテン」も「よか」もなく、パクパクと夕食をいただくのに一生懸命だった。腹いっぱいになれば眠気がさしてくる。会長さんに「誰がどこに寝してくれますのや」と質問すれば、「あんた方はこれからまだズーッと先のセラリーヤ(今はインダポリス)に連邦政府の病院があるバイ、そこに一時落ち着くのや」と言う。「へへえ、まだこれから先に行くのか」と皆顔を見合わせるばかり。
2時間後、またトラックに分乗して所謂連邦政府の病院とやらに40分ほどで着いた。板張りの建物はまあまあだが、果たして22家族の人達が入れるだろうか。窓はあるにはあるが、ガラス1枚もない。ブラジルは冬の時期に入っているし、窓から風が吹き込んでくる。
ガラス1枚ない病院で22家族が共同生活開始
これから病院での共同生活に入る。削木の屋根に板壁で、内部はガランとして何の仕切りもない。床の上にマットを敷き、家族の人員によって広狭の差をつけ、荷物で区切りをつける。2本のドラム缶で湯を沸かし、四方に柱を立ててぐるり布で囲って浴場とし、夜に浴びる。時々風が吹けば丸見えになることもある。
炊事当番を作って食事を作る順番が回ってきたが、大方雑炊だったと思う。病院の側にブラジル人が点々として家を建てていて、畑にはナンバ、マンジョーカ芋等植えたり、マモンの木があったりしてよく黙っていただいたものだ。マモンを塩もみにしてよく漬物にした。
この病院を起点に約20km先の川べりに天幕を張って、男全部と子供達、男の子の大きい方は皆道作りをした。最初スビセージ、後にビラビセンチーナに、第1船第2船第3船合同で道作り作業をした。それは松原植民地への通路でもあり、二抱えもある大木もあって我々には強敵であった。周りは昼間なお薄暗い大森林である。当時は乾燥期であったため都合がよかった。
また家長達のほとんどが兵隊あがりばかりでとても心強く思った。責任者の方達は、「8月頃に山を各自に分配して、山切り、山焼き、そして蒔き付けと順序があるが、まだ植民地の入口でモソモソと日が経っているばかりでこんなことでは入植どころではない」と思ったのか、次から次へとブラジル人、パラグアイ人を大勢雇ってきた。彼らの手協よさを我々はただ「えらいもんや、やっぱり餅は餅屋だ」と感心するばかり。「まあ日本人は大根切るようなもんやなあ」とも嘆く。
ここはオンサ(豹)も出るところからトラベッソンオンサ(編注=豹の通り道の意)とも名付けた。大きな木の根を残して、日本政府から戴いたシボレーの小さなトラックが通れるだけの道幅をつけて行った。なかなかちょっとやそっとには進まなかった。吸水に不馴れな日本人達はアメーバ赤痢にかかった。吹き出物ができたりもした。病院の集団生活も大勢のせいか空気が悪く、小さい子供達が次々と病気にかかり、どうしたものだろうかと思案した挙句、分散して住む方がよいということになった。
私から責任者に言ってくれというので、責任者にはなしたところ、「ここから別の所に出れば集団生活を乱すことになる」とけんもほろろの回答であった。軍隊より難しい。軍隊なら自分一人だけだが、今は家族を連れている。再三交渉の末、約6km離れた所に連邦政府の役人の官舎の空き家があり、そこに5家族が移り住んだ。お陰で子供達の病気も段々と快方に向かった。
初めての原始林伐採や山焼きに四苦八苦
男達はよくピンガ(ブラジルの酒)を飲んだ。何カ月かかかって、やっと耕地の割り当ての抽選の時が来た。誰も彼もが素人ばかりで、土地の良い悪いもわからず、抽選に当たった場所にそれぞれ行く。しかし、行ったところで大原始林。男手の大勢いる家族にはかなわない。私は一人で大きな木をぐるぐると廻ったが、手の施しようがない。日本で家を売ってきた携行資金に手が伸びる。最初手まね足まねでブラジル人と交渉するが、さっぱり通じない。半日かかってやっと半アルケール3コントスで頼んだ。彼らは今が金儲けと、仲間をたくさん連れてきて仕事をする。言葉が通じないため、両方で多分悪口ばかり言っているのだろう。
山伐りしてあまり日もないのに、蒔き時ばかり急いだため、山は焼けず不焼になった。不焼になった木々の間から若芽が生えてくる。これこそ大変だ。原始林の伐採よりも厄介だ。またまたブラジル人に4コントス支払い、半アルケールに計7コントスも使った。朝露や夕露は体に障るといわれるが、一時も早く家族で住める小屋を建てたい、蒔付けの準備もしなければならん、と朝には星をいただいて出て、夕には月影を踏んで帰る状態だった。
玉の汗どころか、全身絞るような汗に濡れ、まるで競争のように働き続けた。あまりのひどさにうんざりもした。木を切り損ね、あるいは焼き損ねて無残な再生林のようになっている様子は、何の経験もない身にもまさに「最悪の土地」とみてとれたのである。山の燃えさかる火の渦、打ち合う焔の地響きや雷鳴にも似た轟は、戦慄を禁じ得ない。夜になると枯れ木の立ち木に火が移って、まるで万燈を掲げた如くになり、風に散る火の粉は怖い中にも美しく壮観でさえあった。
ブラジル人は、伐採中枯れ木は絶対に手を付けない。伐採の最中、枯れ枝が上から落ちてくる危険があるからである。不慮の山焼きだったから焼け残りの箇所が多く、それの寄せ焼きと木の整理は日時を要し、白灰の上に照りつける日光の反射のきつさに目を痛める者も多かった。焼け木、焼け枝の始末は顔も手も衣類も真っ黒になる。皆シャツが汚れ、ベトベトになり、身にまとうのが面倒にもなる。猿股一つになって働いたこともあったが、その晩ひどい熱が出て日射病になってしまった。(つづく)