日記に綴ったサントス事件(上)=宮村秀光さんの亡き父親

「サントス事件」のことを話す宮村秀光さん

 1943年7月8日に発生した「サントス強制退去事件」を日記に綴っていた故・宮村季光(すえみつ)さん。退去命令を受けた約6500人の日本人のうち、その6割が沖縄県人だった中、熊本県人としてサントス市からの24時間以内の退去を余儀なくされた。季光さんの長男で歴史研究家の宮村秀光さん(80、2世)はこれまでに、父親の日記を事細かく調べ上げており、当時の事件の状況と季光さんの心情などを説明してくれた。(松本浩治記者)

 季光さんは1934年、その7年前にサンパウロ州バウルーに入植していた兄・満(みつる)さんの呼び寄せにより、「ありぞな丸」で渡伯。1カ月ほどで単身、サンパウロ市に出た後、人の紹介を受けてドイツ人の歯科医の手伝いを行うようになり、後に歯科技工士として働いた。その間、サンパウロ州マリリア、プレジデンテ・プルデンテ、リベイロン・プレットなど各地を回って歯科技工士としての注文を取って回ったという。
 41年、当時サンパウロ州ジャカレイに住んでいた敏子さん(熊本県出身、旧姓・奥村)と結婚し、サントス市に転住。翌42年には長女の雪子ダルヴァさんが生まれた。季光さんの妻となる敏子さんは結婚前、サンパウロ市タバチンゲーラ通りにあった「東洋ホテル」に勤務しながら赤間裁縫学校に通い、週末には熊本県人が多く、両親が住むジャカレイの実家へ帰るという生活を送っていた。そして43年7月8日、サントス事件が発生する。
 前日の7月7日午後3時頃にDOPS(秘密警察)からの退去命令通知を紙面で受け取ったという家長の季光さんは、同事件の発端となったドイツの潜水艦がブラジルと米国の商船を撃沈させたニュースを聞いた時から、不穏な事態を感じ取っていた。そのため、行く末を案じてブラジル通貨を外貨に両替し、7日夜には歯科技工士としての小さな器具類を自分たちが転住する先で、妻・敏子さんの両親である奥村家が移り住んでいたサンパウロ州パラグアスー・パウリスタに発送するなどの準備を済ませていた。

生前の母・敏子さんと父・季光さん(左から)

 季光さんの日記によると、翌8日午前10時にサントス駅から日本人700人が同じ汽車に乗せられてサンパウロ市へと向かい、午後3時に到着。ブラス地区の移民収容所(現・サンパウロ州移民博物館)へと連行されて1泊し、夜は友人らと戦局や今後の動きなどについて話し合ったという。
 強制退去命令を受けた際、季光さんは妻の敏子さんと、生後まだ8カ月の赤ん坊だった長女の雪子さんの一家3人でトランク2個だけを持ってサントス市を追い出されたが、敏子さんの腹の中には妊娠5カ月の長男・秀光さんが宿っていた。
 9日は早朝からサンパウロ州パラグアスー・パウリスタへと向かうため、移民収容所からルス駅までカミヨン(トラック)に分乗して送られた。その間、ブラジル人たちから指をさされるなどして非難を浴びており、季光さんは「今に見ておれ」との思いを強く持っていたそうだ。
さらに、同日午後6時頃にソロカバ駅を出発し、強制退去を受けた日本人たちはそれぞれの場所で下車。寒い夜を車内で過ごし、宮村一家の目的地だったパラグアスー・パウリスタに到着したのは10日午前10時頃だった。同地で日本人が経営していた「丸林旅館」に投宿し、長旅で疲れているにも関わらず、地元日本人からサントス市の状況を聞かれて説明したという。(つづく)

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