ふるさと巡り=北東伯の日系社会を訪ねて(2)=「輝かしい未来が見えた」

サンランシスコ河の遊覧船上で涼しい風を浴びながら参加者と共にお昼を食べていると、一人の参加者が「1975年頃にペトロリーナに来た大塚さんって人がこの地に貢献したって聞いたことがあるな」と呟いた。早速、現地ツアーガイドに大塚さんの存在について尋ねると、「直接話す方が早いわ」と言って、大塚さんの娘ミネイアさんの連絡先を教えてくれた。
大塚英二さんは1953年、大分県津久見市で生まれた。18歳の時、10歳年離れた兄のマサカツさんが、兄一家でブラジルへ渡ることを決めた。好奇心の強かった英二さんもブラジル行きを望み、結果、両親と共にブラジルへ渡ることになった。
農業での成功を夢見ていたが、移住先のサンパウロ州サンパウロ市ピニェイロス区では、農業とは無縁の建設業に就いて家計を支えた。
その後、マラニョン州アサイランジア市にいる日本人が畑を売却しているとの噂を聞きつけ、購入。胡椒やトマトの生産を始めたが全く売れず苦労が続いた。何も食べられない日もあったという。
なんとか生活ができるぐらいに稼げるようになったころ、農業雑誌で日系人がペトロリーナやジュアゼイロのメロン栽培で成功したという情報を得た。より良い生活を求めて、ペトロリーナへ移住することを決めた。

ペトロリーナへ移った大塚さんは、マンゴー栽培などを行い、サンフランシスコ河を利用した農業用水電動ポンプを同地域で初めて導入するなどして、一躍事業を発展させ、地元でも有名な農家となった。現在、ブラジルから海外輸出されるマンゴーのほとんどが、サンフランシスコ河周辺で生産されており、地元産業に対する大塚さんの貢献は大きいとの評判だ。
娘ミネイアさんによれば英二さんは、「サンパウロでは必死に働き、マラニャオンでは暴力やマラリアに怯えていた。サンフランシスコ河のほとりに到着して、農業に適した気候、肥沃な土地と水に出合った時、輝かしい未来が見えた」と当時を振り返っているという。

日本から遠く離れた伯国で多くの苦労を重ね、自ら未来を切り開いた日本人。その足跡に早速触れることができた。これがふるさと巡りの醍醐味だろう。「プライア(ビーチ)」に目がない記者が一人でブラジル北東部を訪れていたら知る機会はなかったかもしれない。
お昼を終え、船上で風に揺られていると「ワイン工場が楽しみね」なんて声がふと聞こえてきた。(続く、島田莉奈記者)