【2024年新年特集号】伊東さん、ブラジル北部で百寿祝う=「生き続けるのはいいこと」=長寿の秘訣は草取りとGB

100歳を祝う誕生日会。中央に伊東夫妻と横に息子たち(提供写真)

 「子供の頃は、周りから『お前は身体が弱いから20まで生きへん』ってよく言われたよ」―――そう少年時代を振り返る伊東祐政さんは、サンパウロ市から北西に約2500キロ、ボリビアとの国境にあるブラジル北部のロンドニア州ロリン・デ・モウラ市で7月10日、100歳の誕生日会を4人の息子たちと、今なお元気な妻・正子(まさこ、95歳、高知県出身)さんと祝った。祐政さんにこれまでのブラジルの経歴と長生きの秘訣などを聞いた。

将来を見越しブラジルへ移民

 高知県生まれの祐政さんは3人兄弟の長男。実家では松や杉、李などの林業を生業とする家庭で育った。戦後の経済不況から日本に将来はないと見通し、移民政策に乗っかりブラジル移民を試み、知り合いの7家族とブラジルへ渡ることを決断した。
 1956年2月にサントス港に入港。一緒にブラジルに渡った7家族とともに、親戚の伊東正喜さんが所有するコーヒー農園があるパラナ州ノヴァ・エスペランサ市のノヴァ・ビラックへ向かった。
 祐政さんは当時を「食べていくのが必死だった」と振り返る。報酬制度は「働いた分支払われる」もの。コーヒー豆の収穫や鍬を用いた除草作業などの重労働作業を行っていた。
 「日本から持ってきたお金を喰ってしまうから、もっといいところを探したかった」。祐政さんは労働量に対して行われる支払制度ではなく、生産利益の何割かをもらう支払制度を求めていた。ノヴァ・ビラックで一年を迎え、不満を抱いていた祐政さんは7家族とともにより良い条件の農園に移った。
 約90キロメートル離れた同州アプカラナ市のコーヒー農園へ移った。「コロノ(短期契約農民)だったけど条件はマシだった」と移った理由を話す。新地でブラジル移住2年目を迎えた頃、日本から祐政さんの弟が妻と父母とともにブラジルに来た。
 一年後、約225キロ離れた同州ウムアラマ市で土地の販売をしていると聞き、10アルケール購入することを決断した。ブラジル移住3年目を迎えた1958年、その森林の開拓を始めた。
 「最初は業者に任せて木を倒してもらい、その後は自分で全部燃やした。製材所に木材を注文して自分で家を作った。鋸とか道具は日本から持ってきたから家に全部あったけん。自分たちの家1軒の他に従業員らのためにもう2軒、コーヒー豆保管用の倉庫1軒を建てた」と話す。
 祐政さんは大工としての経験がなかった。日本の建築を真似て素朴なものを作ったという。日本から持ってきたお金を使いながら効率的に新地の開拓をした。従業員の宿を用意したが、収穫や栽培などの時期に一時的に雇うので、「カルピー(Carpir、除草作業)も全部自分がやってたんだ」と話すように、普段の作業は個人で担ってきた。

1955年入港時の写真。祐政さん(右)と前に長女、後ろに長男を抱える正子さん(中央)。

父の志を受け継ぐ息子

 ウムアラマ入植から3年、61年に息子たちが農村部の学校に通い始めた。66年には市街地に家を購入して長女と長男、祐政さんの母が一緒に住み始めた。
 長男の正人さんは同市の高校を卒業後、浪人生としてパラナ州都クリチバ市の予備校に通い、4年がかりでリオ・デ・ジャネイロ州ヴァソウラス市の大学医学部に進学した。医者を目指した理由を尋ねると、その背景には祐政さんの人柄や経験が大きく表れていた。
 祐政さんは戦争後、簡単な治療などを学び、地域の人々の支援を行ってきた。ブラジル移住後もその志は変わらなかった。移住地には近くに医療施設がないことから、けがや病気の手当など受けることは容易ではなかった。そのような環境下で病気によって死に至ることも珍しくない。祐政さんは身の回りの人たちの手当などを行ってきた。
 そんな父の姿を見て、正人さんは父の憧れの医学を選択した。正人さんは大学を5年で卒業した後、サンパウロ市で職に就いた。これで安定した生活が送れると安堵するものの、「このまま定年退職していいのか」と内なる声を聞く。「自分はもっと大きなことをしたい」とモヤモヤしていたところ、友人からロンドニア行きの誘いをもらった。
 当時は州に正式承認されていない黎明期で、むしろこれを好機ととらえ、ロンドニア州移住を決断。連邦政府職員の医者として働き、1万9千平米の土地の一軒家に暮らしている。
 祐政さんは4人の子供に恵まれた。長女と長男は日本生まれで3、1歳の時にブラジルに着いた。次女はノヴァ・エスペランサ、末女はウムアラマ生まれ。長女はサンパウロ市で教師を務め、長男はロンドニア州で医者、両者は既に定年退職した。医化学を専門とする次女は夫が経営する眼鏡屋で診療を行っている。末女は日本・横浜で医者として勤める。

百寿、趣味はゲートボールと畑仕事

最愛の正子さんと二人仲良くゲートボールをする祐政さん(提供写真)

 祐政さんは70歳まで働き、農業定年退職。08年、85歳までウムアラマ市街地にある家で過ごした。ロンドニア州にいた正人さんが「両親が一人になった時に心配だ」と考えて、両親を北部に呼び寄せて、現在は同居している。
 正人さんと妻ジルセさんは、「トイレもお風呂も食事も全部一人でできる。人に頼らなくてはならない方々を見ると辛い気持ちだと思う。全部一人で生き生きとこなしている彼らの姿を見るととても嬉しいし、幸せです」と口をそろえる。祐政さんは少し耳が遠く、背中に少し痛みを感じたり昨今は胃食道逆流症なども見られるが、血圧・血糖値も安定しており、薬の服用は一切必要としていない。
 一人で自由に活動する祐政さんに長寿の秘訣を尋ねると「カルピー(除草作業)だね。95歳までしてたよ」と笑い、「特別なことは何もしていない」と話した。白米が大好きな祐政さんの食生活は、まず一番に白ご飯を、その次に野菜をたくさん食べ、肉を少々といったものだ。
 「若いころはよく身体が弱くて20まで生きへんって言われたよ。ただ、幸いこれまで重大な病気には一度もかかったことがない」と祐政さんは振り返る。
 祐政さんは100歳にもかかわらず趣味で野菜畑を作り、カボチャやキュウリ、大根からパパイヤなどを栽培している。さらにオレンジの接木や、比較的難しいとされているマンゴーの接木も行うという。
 野菜畑のみならず、祐政さんはゲートボールの愛好家だ。取材のためにビデオ通話をした際、ジルセさんは「パパイがゲートボールをしているところを画面越しで見せたかった」と話した。

自分で育てたカボチャを手に持つ祐政さん(提供写真)

 祐政さんはウムアラマ時代に現地文化体育協会(ACEU、Associação Cultural Esportiva de Umuarama)の会員となり、ゲートボールを始めた。その際、「軽トラを出してカンポ(競技場)を作る手伝いもしたなぁ」と懐かしそうに振り返った。それ以来、ずっと愛好し続けている。
 7月に行われた誕生日会は日本在住の娘を含めた家族の他、80人とともにブラジル北部で祝った。「みんな来てくれて嬉しい。喜んでもらえると、じいちゃんもっと嬉しいよ」と喜びに満ちた表情で話した。
 誕生日会には祐政さんの兄弟も友達も出席していない。ほぼ全員が存命ではないからだ。祐政さんは長生きていることに関し、「弟妹みんな死んじゃったけど、はよ死ぬより元気で生き続けるのは嬉しい。いいことよ」と笑顔で語った。
 祐政さんとの会話から長生きの秘訣が健康的な食事、運動習慣、そして生きることに対して楽しく感じる思いが伝わった。病気は免疫の低下により発生するものが多く、ストレスは免疫低下の原因になる宿敵だ。コツコツと健康的な習慣を行い、精神的負担を抑える。
 「元気である限り生き続けたいよ」。そう笑顔で語る祐政さんの長生きの秘訣は、野菜畑の世話とゲートボールかもしれない。

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