《記者コラム》103回も続く伝統の招魂祭=世代交代する日系最古の行事

見かけは同じだが中身は世代交代する日系社会

 2007年以来、16年年ぶりに汎ソロ地方の招魂祭に取材に行き、今もあの厚い志が次世代に引き継がれていることを、とても心強く感じた。アルバレス・マッシャード文化体育農事協会(内村カルロス信之会長)主催の『第103回招魂祭』が7月8日、9日に日本人墓地及び旧ブレジョン植民地第一小学校で開催された。
 世代交代を象徴するのが、会場となる旧ブレジョン植民地第一小学校と演芸用舞台だ。戦前に建てられた木造建築だったからボロボロになっていた。それを勝谷孝ルイス市議の法案によってリフォームしてきれいになっていた。彼は2007年当時市長で、現在は招魂祭実行委員長という存在だ。彼のような二世が歴史を支えている。
 同施設は文化財指定されている関係もあり、同じ建物として再建された。つまり見かけはまったく同じだが、建物自体は新しい。これは同地日系社会のあり方そのものだと感心した。

北海道から50数人が入植した小笠原一族

小笠原マリオ要一さん

 笠戸丸移民からわずか10年後の1918年、サンパウロ市から西に590キロも離れたアルバレス・マッシャード(以下ア・マッシャードと略)に初期日本人植民地の一つ、ブレジョン植民地が建設された。原始林を開拓すべく、計5千アルケールもの土地が売りに出された。1アルケールは2・42ヘクタール(1ha=1万平米、100m四方の広さ)だから、1万2100ヘクタールもあった。単純計算すれば約12キロ四方という広大な原生林だ。
 先頭に立ったのは、当時91歳だった小笠原吉次翁を先頭とする一族50数人と星名謙一郎だった。北海道開拓でならした小笠原一族が、東京駅から長崎港に向かう途上、大阪駅頭で大阪毎日新聞社から「今どき珍しい」と見送りを受け、その餞別として500円をもらった。その資金で買った5アルケールの土地に日本人墓地や旧第一小学校、演芸用舞台が建てられた。
 折しもブラジルでは1918年9月からスペイン風邪が流行り始め、その時に来伯した91歳の吉次翁はサンパウロ市で罹患してしまい、10月の入植直前に他界したという悲しい歴史がある。
 同地50周年史『拓魂』(1968年、ア・マッシャード連合日本人会、宮下良太朗著)によれば、同植民地の土地売り広告が掲載されたブラジル初の邦字紙『週刊南米』の《広告文から見ると、ブレジョン植民地は立派な平和郷であるが、次から次へと境界争い、殺人の数々は、ブレジョンといえば殺人、殺人といえばブレジョンと思い出されるようになった》(36頁)とある。
 開拓地の荒んだ空気の中から徐々に落ち着きが生まれ、1930年代の最盛期には邦人1千家族近くを数えた。奥ソロの一大日本人集団地として有名になったが、1968年頃には200家族まで減っていた。
 会場の旧第一小学校の寄付金受付で雑談をしていたら、その人が現在ア・マッシャードに唯一残る同一族の末裔、小笠原マリオ要一さん(93、2世)だと分かった。「みんな町に出ちゃってね、今じゃ僕一人。ボクは生まれた所に今でも住んでる」と寂しそうに云う。
 「1937年頃、ボクもここで小学校1年から3年まで勉強した。ここはパパイたちが一生懸命がんばって建てた。生徒60人に先生は3人いた。ここはブラジル学校だから日本語は教えていなかった。それば別の場所で教わった。戦争中でも1週間ごとに場所を変えて、日本語の勉強は続けたよ」と懐かしそうに語る。
 「あの頃は本当に日本人ばかりでね、ここが植民地の中心だった。祖父クスシゲは1918年に入植してマラリアで亡くなり、日本人墓地に埋葬された。ブラジルに来たとき、父は12歳だった。たくさん、たくさんマラリアで亡くなったと聞いたよ」と初期の歴史を証言した。

死者続出で、入植翌年1919年に墓地建設

 ブラジルに「日本人墓地」は2カ所しかない。ここと平野植民地(1915年入植)だ。ア・マッシャードの日本人墓地は1919年に日本移民4人が立て続け亡くなったのを受けて作られた。以来、招魂祭は大戦中とパンデミック期間以外は欠かさず開催されており、今回103回と日系社会最古の行事だ。
 初期の開拓地には医者がおらず、栄養状態が悪い中で開拓の重労働に従事せざるを得ず、マラリアや赤痢、フェリーダ・ブラーボ(森林梅毒)などの風土病に罹患して次々に亡くなった。日本人墓地ができた経緯が『拓魂』45頁に次のように書かされている。
 15キロも離れた隣町の墓地まで獣道を担いで運んで、ようやく戻ったら次の死者という具合だったという。《死産児など畑の角に埋めたと言う話もあった。墓地がなく次々に死なれては困るというので、誰に相談という事もなく直ぐ、小笠原尚衛氏は、パラグアスーの奥のコンセイソンと云う所の公証役場まで墓地の許可を取りに行って呉れたのである》と説明されている。
 このようにして入植翌年に日本人墓地が作られた。ヴァルガス独裁政権によって1943年に禁止されるまでに784人が埋葬されたが、3歳までの幼児が350人を数える。約半分だ。そのような無慈悲な犠牲の上に現在が築かれた。同墓地には一人だけブラジル人も埋葬されている。日本人家族が暴漢に襲われた際、身を以て守って亡くなった人だという。
 招魂祭の夕方5時半頃、ロウソクに点灯する時間になると雨も風も止むという不思議な〝伝説〟が生まれ、現在も続いている。

クランデイロの息子が本当に医師に

 肥田善衛さんは同地入植開始から19年目の1927年から、邦人としてはとても珍しい薬局経営をしていた。『拓魂』112頁には《無理矢理に何でもござれのクランデイロ(呪術師、民間治療師)にならざるを得なかった》という興味深い投稿が掲載されている。
 いわく《豚に股肉を持って行かれた怪我人と取り組んだり、(中略)良い歯もついでに抜いてしまったり、色々あった。或る夜だった。馬から飛び降りると線香の匂いがしていた。誰もいないサーラのメーザの上に子供が寝かされ、ローソクの火が明るく燃えていた。間に合わなかったのだ。ところが隣室では、その母親がお産をしていた。天井から吊したコールダ(縄)を両手で握りしめてぶら下がり、土間にうずくまっていた。はからずも別の仕事が待ち構えていた訳だった》という具合だった。
 肥田善衛さんは東京外語大卒で移民監督として渡伯し、1924年にレジストロに3カ月居た後マッシャードに転住し、言葉に堪能なこともあって薬局を開業したようだ。善衛さんの父肥田勘七さんも日本人墓地に埋葬されていると言う。
 善衛さんはそのような流れから、必要に駆られて植民地で医者もどきの行為をせざるを得ず、それでたくさんの人を救ってきた。その後ろ姿を見てきた息子は、実際に医者になった。
 それが肥田ミルトンさんで、1969年からサンパウロ州立パウリスタ総合大学眼科医として活躍して正教授にも就任、1977年からは慶応義塾大学医学部・国際医学研究会(IMA)の医学部生よるブラジル訪問の調整官としても活動している。
 このIMAブラジル訪問の目的は、「医療資源のない場所で医学の原点を学ぶ」ことで、インディオの部落やアマゾンなどで医療活動をする体験をしている。まさに父がア・マッシャードでしていたことに通じる内容であり、それを日伯交流という国際舞台で行っており、志が息子に引き継がされている。

『Coletâea Um Século de Imigração Japonesa Àlvares Machado』を紹介する平田エドアルドさんとエリ・タチザワさん

ポ語訳された『拓魂』が伝える厚い志

 会場には出版されたばかりの『Coletâea Um Século de Imigração Japonesa Àlvares Machado』(200レアル)が販売されていたので、早速購入した。(1)宮下良太朗著の同地50周年記念誌『拓魂』のポ語翻訳、(2)日本人墓地に埋葬された人のリストや歴史説明及び写真集、(3)同地文協の歴史の3冊がまとめられたもので、非常に資料的に価値が高い。
 『拓魂』には初期移民史がつぶさに記されており、このような記念誌をポ語に翻訳して子孫が読めるようにする取り組みは、各地で行われるべきだと痛感する。歴史を知らずして、子孫がルーツ意識を高めることは不可能だ。全伯の日系団体で取り組む必要がある事業だろう。
 その販売窓口にいた平田エドアルドさんは『拓魂』翻訳を手伝った一人だ。「これを子孫に読んでもらえば、『ご先祖さまはこんなに苦労して開拓をしてくれた。そのお陰で今の僕たちの贅沢な生活がある。先駆者の苦労に比べたら自分の今の苦労なんてたいしたことないと思えるようになる本です」と薦めた。日本に10年以上滞在した経験があり、日本語が堪能だ。
 購入したい人は執筆者の一人エリ・タチザワさん(18・98811・5900)まで連絡を。

松本エジナさんと平田フランシスコさん

 その販売窓口で、中村ドミンゴス長八神父の史料館を訪問したいと相談したら、松本エジナ一恵さんを紹介され、わざわざ同史料館を管理する平田フランシスコさんに連絡をとって特別に開けるように手配し、車で連れて行ってくれた。
 聞けば今年は中村神父渡伯100周年という記念すべきタイミングだという。彼は日本初の海外派遣布教師で、バチカンによって1923年、58歳の時にブラジルへ派遣された。1865年に長崎県の五島列島で隠れキリシタンの子孫として生まれ、1897年に司祭に叙階され、奄美大島で布教していた。
 1908年から20年間の間に、日本移民は5万8180人が移住したが、うち約170家族(約800人)は長崎教区に属するカトリック信仰者で、多くは隠れキリシタン末裔だった。カトリック大国にいけば自由に信仰が出来ると大挙してやってきたが、言葉の問題があり、ポ語ミサが理解出来なかった。そこで、日本から神父を派遣してもらう要請がバチカンに送られ、中村神父がやってきた経緯がある。
 当時は交通手段も発達しておらず、重たいミサ用具を詰めた旅行カバン二つをもって馬と徒歩で移動ながら、日系信徒のために遠くマット・グロッソ州まで布教して歩いた。平田さんは「中村神父は78市で1750人に洗礼を施した。2002年から聖人・福者に次ぐ尊者(神の僕)として登録する運動を進めている」とその業績を讃えた。
 中村神父はブラジル人信徒からも深く敬慕され、それまでは異教徒として蔑視されることが多かった日本移民への見方を変えた人物といわれる。
 1991年に開館した同史料館には、同神父の使用した家具や食器のほか、書籍など200点が展示されている。移民史を語る上で、必見の施設といえる。通常は土日の朝晩のミサの間に開館している。それ以外に時間に訪れたい人は平田さん(18・99611・2918)まで連絡を。
 帰り道にエジナさんと話していて、松本一成さん(2017年2月13日没)の娘だと分かり、2度ビックリ。2007年に訪問した際の同地文協会長で、汎ソロ地方では珍しいコチア青年であり、同地の歴史を教えてくれるなど世話になった人だったからだ。

松本エミリア恵美耶さんと娘のエジナさん

 会場に戻ってエジナさんの母松本エミリア恵美耶さん(えみや、84歳、2世)にも話を聞くと「私は生まれたときから毎年招魂祭に来ています。昔は夜になるとシネマをやってとても賑やかだった」と懐かしむ。
 さらに驚いたことに『拓魂』著者の宮下良太朗は父だという。「1943年に日本人墓地が使えなくなり、父は子や孫に歴史を残しておかないと、いずれ忘れられてしまうと危機感を抱き、本にして残さなければと繰り返し言っていました。その頃父が考えていたことが正しかったことが、今証明されている」とポ語版の出版を喜んだ。
 そして現在同地にいる日系家族は110程度だが、招魂祭で日本人墓地を訪れる約7千人の大半がブラジル人という時代になった。かつては日系人による日系人のためのイベントだったが、現在では現地ブラジル人向けのイベントになっている。その分、日本移民の歴史がブラジル社会に広く浸透した。
 午前中に日本人墓地の本堂で行われた慰霊祭で、浄土真宗本願寺派安楽寺の御幸断(みゆきだん)住職は「招魂祭」の意味をこう説明した。「私たちがご先祖様の魂を呼んで慰霊すると思いがちだが、私たちは霊を呼ぶことは出来ない。私たちの方がご先祖様の霊に招かれて、ここに来て慰霊祭をやらせて頂いている。今日もこうして無事に招魂祭を行えるのは、ご先祖様のおかげです」と説いたのを思い出した。
 今日系社会が変遷の途上にあるのは、先駆者の霊がそう望んでいるからなのかもしれない。ここには移民史の原点と同時に、一番先の姿もあると感じる。冒頭に書いた小学校の建物同様、一見昔ながらの姿だが、実態としてはすでに世代交代した新しいコミュニティだ。(深)

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