丹下セツ子さんが死去=ブラジル全国で旅役者公演

日系社会の舞台に立ち続けた在りし日の丹下さん

 「女剣劇(おんなけんげき)旅役者」としてブラジル全国を回って公演活動を行い、丹下太鼓道場創設者でもある丹下セツ子さんが16日午後9時10分頃、肺ガンのためサンパウロ市内の医療施設で亡くなった。行年83歳。東京都出身。
 日本の女優・丹下キヨ子さんの長女として東京で生まれ育った丹下さんは、幼少の頃から日本舞踊を習っていたが「女剣劇士」に憧れ、中学卒業後にその道の草分けである不二洋子(ふじ・ようこ)氏に師事した。
「日本で大衆劇団をつくり、その座長になりたい」との夢を抱いていたが、1960年代当時、大衆劇団をつくるのには100万円もの大金が必要だったという。その間、母親のキヨ子さんは南米銀行創立15周年記念イベントとしてブラジルでのショー出演に招待されて訪伯。ブラジルが気に入り、家族を呼び寄せることに。丹下さんはその頃、日本の大衆演劇に夢中で海外に行く気はなかったが、キヨ子さんから「ブラジルに来て1年も公演活動をすれば、大衆劇団をつくる資金くらい出すことはできる」と言われ、その気になった。
 キヨ子さんの呼び寄せで1965年に渡伯した丹下さんは「舞台に上がる以上、お客さんに喜んでもらえなければ意味がない」と、75年頃には「丹下セツ子劇団」を正式に立ち上げ、「旅役者」として仲間とともにブラジル各地を飛び回った。ブラジルに滞在して30年ほど経った頃から「芸人なんて、どこで花が咲いたって同じ。『セッちゃんが出るから見に行きたい』とお客さんが言ってくれる。ブラジルで伝説の人になろうと思った」という。
 サンパウロ市内で『左膳(さぜん)』や『雅(みやび)』などの日本食レストランも開業し、日系社会のみならず駐在員客からも広く親しまれた。また、日本の大衆演劇役者の大御所・沢竜二さんとも深い親交があり、日本での公演にも協力参加。東京・浅草で年に1回しか観ることのできない「座長公演」を1995年と2002年の2回、サンパウロ市リベルダーデ区のブラジル日本文化福祉協会大講堂で実現させている。
 さらに、「丹下セツ子太鼓道場」を設立し、日本の助六(すけろく)太鼓家元の今泉(いまいずみ)豊氏を何度もブラジルに招いて生徒たちを指導。45年間にわたって太鼓道場に携わり、数多くの門下生を輩出してきた。
 丹下さんは昨年から肺ガンを患い、自宅で療養していたが、1週間ほど前にサンパウロ市内の病院に入院した後、医療施設に入っていた。葬儀は17日午前10時からサンカエターノ・ド・スル市内の葬儀場で執り行われた。初七日法要、四十九日法要は17日現在、未定。

サビアの独り言

 過去の取材で、「子供の頃は『弱きを助け、強きをくじく女ヤクザ』になりたくて、そのことを学校の先生に話したら、廊下に立たされたよ」と笑っていた丹下セツ子さん。男勝りの竹を割ったような性格でコロニアの芸能界でも「親分肌」だったが、他人への目配り・気配りは人一倍で、何事も行動が素早かった。普段から「役者は花がないとダメだよ」と話していたとおり、小柄な丹下さんがひとたび舞台に立つと、躍動感があり、大きく見えたことが印象に残っている。焼肉が大好物で、記者もよく「一緒に食べようよ」と誘っていただくなど、大変お世話になった。心からご冥福をお祈りいたします。(松)

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