《特別寄稿》誰も書かなかった日伯音楽交流史=坂尾英矩=(20)=天皇陛下はショーロのファン

ショーロについて御進講申し上げる筆者(ショッピング・インフォメーション誌 羽田宗義撮影)

「皇太子殿下の歓迎パーティを企画してくれ」

 1982年の初め頃、私が在サンパウロ総領事館に勤務していた時に、総領事から内線電話がかかった。通常、総領事の館内事務連絡は各班担当領事を通じて伝達されるのだが、直接の呼び出しは何事だろうとおそるおそる飛んで行った。
 すると、藪総領事は「ソファーに座れ」と言って、ニコニコ顔で「実はね、皇太子ご来伯の際に公邸にお泊りになるから何か印象に残る歓迎パーティを催したいが、殿下はビオラがお上手だそうだから音楽関係が良いと思うので何か面白い企画を練ってくれないか」という相談だった。
 私は責任の重大さに即答にとまどってしまったが、総領事が続けて「僕は音痴で分からないので君が一番適役だからよろしく」と頼まれた一言で引き受けることになった。
 私は「浩宮殿下がビオラ奏者なのでブラジルの典型的伝統音楽ショーロの御前演奏なら必ずお喜びになられるだろうし、また同じ年頃のジュニア弦楽オーケストラと共演していただくのは如何でしょうか」と提案したら、名文で名高い藪総領事の公信が功を奏したのか、本省、宮内庁を通じてすぐに確定したのである。
 サンパウロには有名なショーロ・グループが多いので、優劣の差などつけられず私は選考に迷ったが、結局日本での知名度を考慮してバンドリン名手エバンドロのバンドに依頼した。エバンドロは有名楽器店のセールスマンだったから楽器やレコードを買いに来る日本人にはお馴染みだったのである。
 一方、クラシックのジュニア・アンサンブルは当地日系音楽関係者の一致した推薦でサンパウロ市立音楽学校の福田百合子教授が指揮するジュニア・ストリング・オーケストラが選ばれた。
 また広報担当領事からジャーナリストに加えて音楽評論家たちを招待するよう指示があったので、当時州文化庁副長官をしていたクラシック音楽評論家のエニオ・スケフ、オ・エスタード紙音楽コラムニスト、マリア・ラウラ・グリーンハル女史、エセルシオール・ラジオ局プロデューサーでテレビ・タレントとして売れっ子だったマウリシオ・クブルスリー、英字紙ブラジル・ヘラルドのジョー・アン・ハイン・サンパウロ支局長が出席することになった。

アフォシェやカバキーニョに興味示された皇太子殿下

 1982年10月8日21時より待ち望まれた皇太子殿下演奏のコンサートがモルンビ区総領事公邸で開催された。第一部のショーロ御前演奏では、総領事から最初にショーロの説明を殿下に御進講申し上げるように頼まれた私は少々上がり気味で固くなっていた。
 外国生活26年の私にとって皇族の御前で御進講なんて敬語の使い分けの自信がなかったのは無理もない。
 しかし藪総領事が「心配ないよ。大学の講義のつもりで気楽にやりなさい」と肩をたたいてくれたおかげで無事に役目を果たすことができた。
 レパートリーには世界的な名曲、ビラ・ロボスの「ショーロNo.1」とエルネスト・ナザレの「オデオン」は欠かせなかったが、殿下の力強い拍手に私は肩の荷が下りる思いだった。
 第2部の待ちに待ったブラジル人生徒アンサンブルとの合奏には浩宮様が愛用のビオラを手に「モーツアルトの弦楽四重奏」を見事に演奏され、満場から大喝采が盛り上がり素晴らしい日伯交流コンサートだった。
 ショーロ・グループが終了したとき、殿下はソファーから立ち上がられてエバンドロに素晴らしい曲に感動された旨を大口大使の通訳で伝えられ、歌手のサンドラが持っていたリズム楽器アフォシェを手にして試しておられた。
 またカバキーニョや7弦ギターなどには特別に関心を示されてエバンドロに色々質問されておられた。
 音楽界の出席者全員が感動と感謝の意を総領事館側へ述べていたが、強く印象に残ったのはエバンドロのひと言だった。彼は私の手を強く握って「プリンスはショロン(ショーロの演奏家・愛好者)だ!」と興奮していた。
 どうして分かるのか、と訊いたら、「僕はね、長年の経験で聴衆の目を見れば間違いなく感じ取れるのだよ」と断言したのである。その後エバンドロは日本の著名ショロンである井上みつる氏の招へいで4回も訪日公演してレコーディングも残している。
 彼は日本を愛し、常に「日本で演奏すると生き甲斐を感じるのだ」と言っていた。「生き甲斐」はポルトガル語ではニュアンスが少し違うが、彼は「ラゾン・デ・ヴィヴェール(生きることの意義)」と表現していた。
 残念ながら1994年に62歳の若さで亡くなったが、もしエバンドロが健在で現在の桑名総領事がカバキーニョの名器を買って練習していると知ったら何と言うだろうか。「総領事はショロンだ!」と喜んで叫ぶに違いない。

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