連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第56話

・三月十七日(月曜日) 目覚めと共に硫黄の臭いの立ち込める湯につかったあと、ロビーで今からお世話になる大阪、天理、宮崎、熊本の皆さんに電話連絡する。八時過ぎにホテルを出発。その近くの戦場ヶ原を見て、見上げるような高さより落ちる華厳の滝のそばを通り、日光市に出て、日光東照宮を参観する、それから二〇〇㌔余り車窓からのすばらしい眺めに歓声をあげつつ、夜は横浜の藤本信行さんの家に泊まる。
・三月十八日(火曜日) 東京駅を十時三十分発の新幹線で新大阪駅まで熊本の母と鉄ちゃんと私達四人旅。もちろん新幹線乗車は初めて。すばらしい乗り心地、うす曇りで富士山は見えず。新大阪駅までは美佐子のすぐ上の兄、公一郎の出迎えで一路高槻市の家に休む。奥さんの丸子さん、その子供の公丸君、きみ子さん、美佐子の一番下の弟、松郎・節子夫婦、その子供二人、私にとっては皆初対面であるが、美佐子にも初対面が多い。夜八時高槻を出発、車中うつらうつらするうちに天理に着く。まず本殿に参拝して母の下宿に向かう。懐かしい声、母の声、苦労に刻まれた顔も以前よりつやが出て張りがあり、でも涙に耐えるのが精一杯であった。

    母、ぬいと天理教

 ここで私の母、黒木ぬいと天理教との関わりを簡単に説明する必要がある。私自身もおぼろげな記憶しかないので充分な説明は出来ないけれど、多分戦時中の一九四三年頃がその始まりではなかったかと推測する。私達の故郷、宮崎県日向市畑浦部落の隣の曽根に天理教此花大教会系の此晑教会分教会があった。当時そこの女会長であられた山岡さんはいつも人助けの布教に畑浦部落にも来ておられた。私達の母は苦労に打ちひしがれて家族の生活を支えきれない状態で悩んでいた。その頃、山岡さんの天理の教えにすっかり感銘をうけ、これにすがるより道はないと思った。
 第二次世界大戦の終末に近い一九四五年二月に彼女の第八番目の子供、七海が生まれた。そしてその年の八月十五日終戦となり、そして又その次の年、母は第九番目の子供をみごもった。母は悩んだ。これ以上の育児は出来ない。母は神にすがった。必死だった。そうしたらその願いが神に通じたのか流産した。それからの母は天理の教えに命をかけた。
 その後、母は自分の長男、知足夫婦やその子供達のことで悩まされることになる。恋愛で一緒になった筈の夫婦なのに知足の妻、いしのが三人の子供を残してどこかへ姿を消したのである。もともと坊ちゃん育ちの生活力のない知足は三人の娘を母ぬいに預けたのである。

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