110ヘクタールの葡萄畑=ジュアゼイロの日系農家を訪ねて(5)=黄禍論、風土差を乗り越えて

親戚一同で撮影(左からマサルさん、ヒサコさん、アキオさん)
親戚一同で撮影(左からマサルさん、ヒサコさん、アキオさん)

 農場見学後、創業者であるマサルさんの妻・ヒサコさんに入植当時の話を聞いた。
 ヒサコさんはマサルさんと結婚前、サンパウロ州で歯科医として勤めていた。結婚後、3人の子宝に恵まれた。長男7歳、次男6歳、三男生後4カ月という子育ての真っ只中で、コチア産業組合中央会が主宰する一大開拓事業「クラサ(CURACA)・プロジェクト」に参加することになり、家族でジュアゼイロに移住した。
 当時、クラサプロジェクトでジュアゼイロに入植したのは29家族。サンパウロ州リンス市から13家族、モジやレジストロ、パラナ州のアサイやカストロからの入植者もいたという。
 移住当初のノルデステには、日系人が少なく、街を歩けばとにかく目立ったという。ヒサコさんは「食材を買いにいくときも、じろーーっと見られて、街中で家族と歩いていても、よく目で追いかけられましたね。サンパウロに比べれば今でも日系人は少ないですが、入植当初に比べたら目立つことも無くなり、居心地はよくなりました」と話す。
 2008年10月30日付ニッケイ新聞サイト記事《実りの葡萄の名産地=ペトロリーナ・ジュアゼイロを訪ねて=連載〈2〉=灌漑事業で恵みの土地へ=83年入植、コチアが募集》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2008/081030-72colonia.html)では、クラサプロジェクトに参加した深川一彦さんが《「当時、日本人が土地を奪うとか言われてね、地元の新聞には、『ペリーゴ・アマレーロ』なんて書かれたこともあるんですよ。だけど、今は信頼を得ているからね」》と語っており、入植当初の日系人に対する地元住民の目が厳しかったことが伺える。
 サンパウロとジュアゼイロの天気や食事の違いにも悩まされたという。 「サンパウロよりも乾燥していて連日暑いので、慣れるまで本当に苦労しました。同じブラジルの中でも食べるものが違うので、それにも慣れるのに時間がかかりました」
 「それでも夫と一旗上げる事を決め、幼い子供を連れてまできたので、諦めませんでした。今日にいたるまで大変なことは多くありましたが、結果的に移住して本当に良かったし、私以上に夫や息子のほうが大変だったと思いますよ。今、平穏に暮らせているのは家族のおかげです」と微笑みを浮かべた。

広大な葡萄畑
広大な葡萄畑

葡萄栽培技術で地元貢献

 ドイ一家は「ファゼンダ・グローバル(Fazenda Global)」社を経営する傍ら、地元伯人農家に農業技術を教える活動を行っているという。
 2年前に葡萄栽培を始め、マサヒロさんから指導を受けているカリンカ・マセドさんは「ドイ家に葡萄栽培を指導していただいたおかげで、葡萄が順調に育ってきました。マサヒロさん含め、皆さん懇切丁寧に教えてくれるので、本当に感謝しています」と話す。
 マサヒロさんは「私たちが葡萄畑を経営できるのは、先祖や両親、ジュアゼイロの人々のおかげ。これからも感謝の気持ちを忘れず、葡萄栽培を通じてジュアゼイロの発展に努めていきます」と笑顔で語った。(淀貴彦記者、終)

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