連載小説=おてもやんからブエノスアイレスのマリア様=相川知子=第3回

1931年、婚姻のために白無垢を着た女性、家を出るので両親に挨拶している (参考写真、Bundesarchiv, via Wikimedia Commons)
1931年、婚姻のために白無垢を着た女性、家を出るので両親に挨拶している (参考写真、Bundesarchiv, via Wikimedia Commons)

3.海を越える通信、文通

 当時は通信する手段は他になかったから、手紙のやりとり、文通というんだけれども郵便局へ手紙を持って行ってお金を払って切手というものをもらって、それを手紙をいれた封筒に貼って送っていた。その封書が向こうに届いて、それから、こちらにその返事の手紙を受け取ってね。
 アルゼンチンと日本の間の郵便は数週間ならいい方で、数か月かかることもある、のんびりした時代だった。異国の切手を見ると少し色使いが違って珍しかった。
 文通とはいっても、もちろん結婚することは決まっているのだから、時候のあいさつ数行と、写真があれば一枚に一文があるような説明だけのもので、恋しているとか愛とかそういうやりとりの手紙じゃなかった。封を開けるたびに、土の匂いがした。大きなうちに住んでいる人だと最初は思ったよ。写真の裏には僕のうちです、と書いてあった。
 あとで行ってみてわかったんだけれども、その大きい家の写真の奥に小さいキンチョがあってね。キンチョってまあ小屋、離れだよね。それがその人のうちで大きいのはパトロンと呼ばれるその雇い主というか、そのときあの人を援助してくれていた人の家だったんだよ。詐欺だって言わないでね。それがその昔はそういうものだったんだよ。
 私なんかまだましだよ。女学校の同級生は、端正な顔で、身なりも美しい人の写真を見せられてうっとりしてお嫁に行ったらね、こんなことがあった。祝言で三々九度という誓いの盃をかわしたときのことだった。白無垢で角隠しの重い頭をあげながら、横目で新郎の顔をどきどきしながら初めて拝んで、違うどきどきになってしまったそうだ。
 というのは、写真で見るよりおじさんだった。もちろん本人だったけれどもね。受け取った写真は10歳以上若いときのものだとわかった。ああ、そう、昔はそんなものだった。会いもしないで、写真を交換しただけで、結婚に至ったのだから。写真結婚といわれていたね。
 それでもまあ、友人の婚姻の儀は二人揃って一緒だったから、よかったですよ。私の祝言なんて、信じられないだろうけれども、新郎不在で行われたんだから。アルゼンチンに住んでいるんだからね。そんな遠い熊本にわざわざ結婚のために帰ってくるなんて大変なことだよ。
 それよりも現地で新居を準備している、なんてことを手紙に書いてきたのを見て、誠実な人だと思ったよ。南米へ移住するには婚姻している必要がある。夫婦であるという戸籍を見せて、それで呼び寄せ移住が可能になる。新郎がいない夫婦固めの三々九度をして、両親が涙目になるのを見て、角隠しの頭をあげた私も本当に泣きそうになった。この家族といつまた再び、まみえることができるのか。何年後なのか一生会えないのか、わからなかった。
 その後、日本に初めて帰ったのは、新幹線という新しい鉄道が走り始めたころだった。移住当時は衣類は着物しかまとっていなかった時代だったから、アルゼンチンに移住して40年以上も経ってからだった。それがやっとだった。あのおむつを替えた甥は立派な院長になっていた。(つづく)
(※注=「キンチョ」quinchoは、母屋ではなくそこからの離れ屋、小さい家屋のこと)

 

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